2011-06-04

美学会東部会での発表を見た報告

東京芸大で行われた美学会東部会例会で室井先生が話しました。タイトルは「震災とアートフェスティバル:口実としてのアートに何が残されているか?」 研究発表半分、談話半分、という形でした。
モダニズムのアートから口実としてのアートという「アート」の変化について語り、それでは「口実としてのアートには何ができるか」という問題意識から、ヴォディチコのイベントの紹介を行ってました。
研究発表会の場所に談話的なコミュニケーションを放り込むのは乱暴な話ですが、なかなかそれはそれで珍しい代物ですし、面白いものでした。その後の質疑応答の場では、何を話して良いか分からず戸惑っていた人もいたようでしたが、十分宣伝にはなったし、ヴォディチコのプロジェクションをアートを取り巻く現在の状況の中に位置づけ、exposureな経験にまつわる問題意識をになっていることを語ることができたと思います。

美学会のみなさん、8月に横浜にどうぞおいでませ。
(中川)

以下、長々とした感想は長々としているし中川個人の感想なので、中川個人のブログを御覧ください。

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前半は原稿を用いながら話していました。
4月に北仲で行われた「美学vs.現代アート」から、西村先生と村上隆さんが語っていたアートワールドの構成条件などの話と、吉岡先生が語っていた「exposureな経験」にまつわる話を参照しながら、「アート」の変化ー自己目的的で本質主義的な規定を持つ「モダニズムのアート」から何らかの手段として使われるアート(=口実としてのアート)へ、という変化ーについて語り、そのうえで、ヴォディチコのプロジェクションについて語る、という流れでした(たぶんこの要約で良いと思うけど、いろいろ抜けてるところはあります)。


言われてみて、そりゃそうだと思った指摘。

1.ヴォディチコをはじめとするプロジェクション形式としてのアートは「口実としてのアート」である。
2.いわゆる「国際的なアートフェスは (1)「世界」基準を適用することで日本のアートを「世界」に輸出することを目的とする開国直後の日本の博覧会のようなもの か (2)アートは口実で地域振興を目的としている「口実としてのアート」 のふたつに分かれる傾向がある(ヨコトリはその中間)。



で、以下は中川が考えたことです(3くらいまでは発表中に述べていた気もするけど、言ってたかどうか忘れました)。

3.プロジェクション・アートは、国際的なアートフェスに適合的である。
:プロジェクション・アートという「口実としてのアート」は、「国際的なアートフェス」という展示形式に適合的なアートとして登場したと考えることができる。

4.北仲のプロジェクト・チームは、けっこう自由に動けば良いはずだ。
ヨコトリには、社会的なメッセージなどを伝達する「口実としてのアート」を集める舞台である、という性格がある。
なので、ヨコトリと連携をとりつつヴォディチコのプロジェクション・アート(という「口実としてのアート」)を提示しようとする北仲のプロジェクト・チームは、けっこう自由にアートを口実として使いつつ、小回りをきかせて動くべきだと思われる。
つまり、あまりモダニズム的なアートワールドのことは気にしなくても良いと思われる(まあ、誰もほとんど気にしていないけど)。

5.ヴォディチコのアートもけっこう手が込んでるものであることは認識しておくべきだ。
「ヴォディチコのプロジェクション・アートはいわゆるアルスとかアートとか技術を持たないアート(=口実としてのアート)だ」という方向に話は進みがちだけど、でも、プロジェクションするためには、場所、機材、車、インタビュー素材等々を確保しないといけないし、それを確保するために色々な人とコミュニケーションとらないといけないし、インタビュー素材を準備するにはかなり機微を踏まえた明晰で正直な人間同士の会話が必要。つまり、ヴォディチコのやっていることも、かなり「アート、アルス、技術」が必要だ。これは十分意識しておくべきことだと思う。手仕事の帰結としてのアートとプロジェクション・アートなどでは、「アルス」が必要な段階が違うってことだ。

6.「書くように話すし、話すように書く(ように見える)」技術ってすげえな。
「書くことと話すことと考えることの差が余り無い(ように見える)」ってすげえな。

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