2017-06-25

メモ:大城真さん企画のコンサート@桜台pool

義母が神戸から来てくれていて、ちょっと一日くらい家を空けても大丈夫と言ってくれたので、大城真さんの企画を見に行った。

コンサート
大城  + 川口 貴大
網守 将平 + 梅沢 英樹
正直 (時里  + 小林 )
大和田 
桜台poolにて

実は初めて桜台poolに行った(参考:オーナーはカイライバンチというバンドのひとらしい)。地下二階で、会場の手前に楽屋みたいなところがあった。なんか訳の分からない機械がたくさんあった。バイクの修理工場みたいだ。

二台の机で向かい合いながら机の上のガジェットたちで音を出し続ける大城さんと川口さんのデュオ、ドリルンベースかドラムンベースみたいなリズムにリバーブとかエコーを100回くらいかけた音の波を不安定にぶつけ合わせるデュオと、自動釣り糸巻き取り機みたいな機械を使いつつひたすらガムテープを貼りつけたり剥がしたりするデュオと、受験勉強に勤しむ浪人生のような姿勢でノイズをひねり出す大和田俊くん。最後にもう一度、大城川口デュオ。

五つとも堪能した。
〈フルクサス的な「イベント」とかに回収されるわけではない21世紀東京のこの「コンサート」のようなパフォーマンスが面白い見世物として成立するのはなぜか?!〉ということに関する細かな考察は手元にメモしておくとして、無難な感想をいくつか、記録として記しておこう。

大城さんが40万円くらいするコンプレッサーの話をしていて、それがいかに良いものであるかを説明していて、面白かった。なるほどー。とはいえ、なんでそこまで微細な録音の音質にこだわるひとが、そういう音質とまず関係のないタイプのパフォーマンスするのだろう。
今回の「コンサート」は、このデュオの録音をしておきたかったから企画したとのことだが、録音だけでなく録画も残して欲しい。視覚的な側面があると、とても面白いぞ!

中村としまるさんと初めてお話したので、2,3年前にNYのRouletteで見たときの感動を伝えておいた。関西にもこういう即興シーンはあるはず、とのこと。あまりレッテルを貼られるのは嫌らしい。とりあえず「即興シーン」と呼んでおくのが良さそう。
僕は関西にいた頃、関西の即興シーンを見つけられなかったなあ。

イベントの前に食べたのだが、桜台駅そばの「ラーメン破顔」の汁なしラーメンは美味い。

2017-06-05

メモ:天野郁夫『帝国大学ーー近代日本のエリート育成装置』(中央公論新書、2017年)

明治維新後からWWII後まで、「帝国大学」の歴史を辿ったもの。歴史的事実の基礎的な流れは分かるが、そのことが「意味」するダイナミズムが僕にはいまいち分からないが、むしろそれこそが、研究者として目指した文章なのだろうと推察する。立花隆『天皇と東大』の副読本として参照すべし。
元は『学士會会報』の連載だったらしく、1936年生まれの著者にとって「研究者生活の締めくくり」(267)とのこと。人生の締めくくりを宣言するタイプの人生もあるのだな、と思う。
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2017-06-03

メモ:netflixでエミネム主演の『8マイル』

エミネム主演の『8マイル』を見た。もちろん〈ラッパーの映画〉だし〈フリースタイルの映画〉として秀逸なんだけど、青春映画として、いたく感動した。
友だちとか恋人とか家族とかに心が通じる時も通じない時もあるけど、他人の意見に左右されず、自分のやることは自分で決めてひとりでも行動する主人公を見ると、勇気付けられるだろう。英語のラップを理解できればなおのこと、そうなんだろう。
孤立することの大切さを見せつけているという点で、エミネムは渥美清のように素晴らしい(参照:小林信彦『おかしな男 渥美清』)。
(僕、エミネムのこと、ほとんど何も知らないけど。)
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2017-06-01

メモ_岡崎峻「二重記述へのステップ──デヴィッド・ダンの《樹の中の光の音》における科学的視座の役割」(2017)

岡崎峻 2017 「二重記述へのステップ──デヴィッド・ダンの《樹の中の光の音》における科学的視座の役割」 『表象』11:216-230。

デヴィッド・ダンについて考究する論文を読んだ(この号の『表象』の書評は豪華絢爛な執筆陣とレトリックだったので、ついつい「考究」なんて熟語を使ってしまった)。論文の本筋はあまり理解してないかもしれないけど(申し訳ない)、僕にとって、いくつかの思考の種となる良い論文でした。

1.
90年代以前と以降のデヴィッド・ダンの活動の関係が分かって、勉強になった。デヴィッド・ダンの活動の多くの点がベイトソンに導かれていたことを考えると科学的視座を導入したことは不思議ではないが、僕は、90年代以降のデヴィッド・ダンのそういう活動の意義をあまり理解していなかったので、勉強になった。
とはいえ、論文の本筋はあまり理解できていないと思う。90年代以降のデヴィッド・ダンは、ベイトソン的な「二重記述」を実践的に応用するために、「科学的視座」を導入した、ということらしい。かな? たぶん。

[超テキトーなまとめ:あんまし信用しないでください。誰か修正してください。]
(デヴィッド・ダンの作品は、ある意味、〈自然を理解する〉行為のデモンストレーションだが)自然を理解するために、知覚を通じた自然理解だけに依拠するのではなく、生物学的な自然理解だけに依拠するのでもなく、それらのいくつかの経路をともに作動させる、ということをデヴィッド・ダンは行った。その際に科学的視座は役立った。

ということかな?
要約してみて、なんとテキトーな要約なんだろう、と反省した。誰か僕のこの要約を修正してください。

2.
論文の本筋からは離れるが、「ケージ以降の音響芸術(のひとつの発展的展開としてのデヴィッド・ダン)」という位置付けについて、さほど議論がないまま前提とされていることが、感慨深かった。このことに反対というわけではなく、デヴィッド・ダンによるケージ批判(あるいは相対化)とかダグラス・カーンによるケージ批判(あるいは相対化)が言及されている学術論文を読んだことが、僕にとって、感慨深かった。そりゃ確かに、どちらも1993年の『Music Today』18号に日本語で述べられていることなのだから、「音響芸術」という言い方の歴史性に関心を持つ僕の問題意識は古いのだろうけど。でも、言及されているのをほとんど見たことがない論点なので。

3.
これも論文の本筋からは離れるが、ダンの作品の美的面白さを記述することの難しさ、を感じた。この論文にとってデヴィッド・ダンの作品の面白さの説明は二の次だけど、デヴィッド・ダンの作品が美的に面白いからこそ、デヴィッド・ダンの作品における科学的視座の役割について論じる意義はあるのだから、デヴィッド・ダンの作品の面白さについて語る必要はあるはずだと思う。なんなら〈デヴィッド・ダンの作品の音響現象を録音したレコード音楽の面白さ〉について語ることも可能だと思うのだが、どうだろう。今度日文研の音耳班の研究会で会ったら質問してみよう。

4.
さらに、これも議論の本筋とは関係ないのだが、デヴィッド・ダンという芸術家の活動を、ケージ的な実験音楽以外の文脈、たとえばMAKEとかの文脈に関連付けると面白そうだ。このことについては、僕は今はまだとくに何のアイデアもないけど。

5.
この号の『表象』に掲載されている平倉さんの論文、あまりちゃんと読んでないけど、(僕にとって)珍しい方法論でピカソにアプローチしていて面白いなあ、と思いました。この内容で美術史学会で発表してみて欲しい(そしてどんな反応が返ってくるのかを教えて欲しい)。
あと、書評が豪華だった。で、「論述の価値がその形式に多くを負っていること」(蓮實重彦、p.271)というのはまさにその通りだと思うので、僕はやはり、レトリックに依存する文章というのは、良く言えば苦手だ。まだるっこしい。
なので、東浩紀(お会いしたこと無いので敬称略しておきます)の書評が抜きん出てスゴイなあ、と思いました。


表象11:ポスト精神分析的主体の表象
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