2018年1月19日金曜日

作文:多音源サウンド・インスタレーションについて:Paul DeMarinis《Tympanic Alley》(2015)@難波CAS

2017年10月15日(日)に、難波のCASというアーティスト・ラン・スペースで展示されていたPaul DeMarinisの作品を見た。デマリニスさんはその前日に日文研の細川さんの研究会に来て一時間ほど話をしてくれた。
CASではふたつの作品が展示されていたが、ここでは、デマリニスの《Tympanic Alley》(2015)についてメモを残しておきたい。

1.作品説明
《Tympanic Alley》 (2015)は「多音源サウンド・インスタレーション」である。


手のひら程度の大きさの音を発するデバイスが20個ほど、天井から来場者の目の高さあたりに吊り下げられている。来場するとCASの方が電源を入れてくれて、それぞれがバラバラのタイミングでカタカタ音を立て始めた。
近づくと音が発生する理由が分かった。普通のクリップが取り付けられていて、それが銀紙のような部分にあたることでカタカタ音がするようだ。さらに、しばらく見ているうちに、何かの拍子でクリップが銀紙部分に触れなければ、そのカタカタ音の連鎖が止まることにも気づいた。つまり、クリップが銀紙に接触して通電すると、クリップが少しだけ跳ねあげられ、クリップが再び銀紙にあたることでカタカタ音が発生する(そしてまた通電してクリップは少しだけ跳ねあげられる)のだが、何かの拍子にその連鎖が止まることもある、という仕組みだった。ということは、そのうちすべてのカタカタが止まってしまうこともあるのかもしれないが、実際にはほんの僅かの振動でクリップは銀紙に触れて通電するので、来場者が室内を歩き回って空気が揺れる程度のことで、カタカタ音の連鎖は復活していた。カタカタ音がすべて自然に停止するということはなさそうだった。

2.作品経験の説明
こうした多音源インスタレーションの経験は心地よい。同じようなカタカタ音しかしないけれど、決して規則的なワンパターンには陥らない複雑なタイミングで多数の音源が鳴り響く。そして立ち位置によって微妙に音の聞こえは変わっていく。そういう聴覚経験は心地よい。
これは「世界」を経験することに似ている。乱雑で複雑系のサウンドスケープの中で不規則なパターンの音を聴き続けるという行為は、世界を疑似体験することにメタフォリカルに似ていると言えそうに思う。それに、これらの音デバイスはちょうど顔のあたりで鳴っているので、作品と音デバイスの活動に自分が参加しているかのような感覚も経験する。つまり、僕たちは、世界が生成されるプロセスをその場で観察しているかのような感覚も持つのだ。

3.類似作品
こういう多音源サウンドインスタレーション作品には多くの類例がある。いくつか思い出せるものを並べてみる。

2007年に大阪の国立国際美術館で見た藤本由紀夫のビートルズを数百曲同時に再生するインスタレーション作品(Ibaraki: 藤本由紀夫展 +/-
2013年に NYのMoMAで見たTristan Perich, Microtonal Wall. 2011.
2012年にZKMの『Sound Art. Sound as Medium of Art』展の屋外に展示されていたスピーカー作品
2016年2月に山口のYCAMで見たサインウェーブオーケストラのインスタレーション(YCAMのSWO:I am alive.: 作文:サイン波は世界を幻惑する(かもしれない)
2017年にGallery Out of Placeで見た大城真さんの《Cycles》

などである。
僕にとってこれらの作品のポイントは、これらが、立ち位置によって聴こえてくる音が異なること、つまり歩き回りながら聴覚経験を楽しめること、それから、現実のサウンドスケープの「モデル」あるいは「サンプル」として経験できること、という2点だ。
(ジャネット・カーディフの《40声のモテット》も、立ち位置によって聴覚経験が異なるという快感を追及した作品としては同系列の作品といえる。でもあれは、現実のサウンドスケープのサンプルではない。)
現実のサウンドスケープの「サンプル」の経験というのは、例えば、盆踊りとか宴会場とかの雑踏や賑わいがもたらす賑わいのことを思い浮かべてもらうと分かりやすいかもしれない。つまりは、そういう現実世界の雑踏の経験に(象徴的に)似ている、と僕は思うのだ。そうした音は騒音なので嫌う人も多いだろう。しかし、これらの多音源サウンド・インスタレーション作品は、そうした雑踏の音をある程度コントロールして「世界のサンプル」を提示することで、世界の疑似体験を理知的に抑制しているといえるのではないか、というのが僕の仮説だ。僕はこの手の多音源サウンド・インスタレーションを経験するたびに、世界のカオスを理性的に制御して経験することがもたらす快楽を感じてしまうのである。

4.多音源サウンド・インスタレーションの条件
こうした作品が制作可能になった背景には、ケージのVariations series(あるいはもちろんミュージサーカス)やデヴィッド・チュードアの《Rainforest》のような作品の存在を指摘できるだろう。つまり、世界の各地から採集してきた様々な音源を提示するサウンド・インスタレーションだ。これらの作品はケージたちにとっては、(乱暴に単純化するが)音源を遠隔地から持ってくるそのやり方において、音響通信技術の発展を取り込もうとする意図のもとで作られた作品でもあった。
あるいは、ビル・フォンタナやクリス・ワトソンのように、実際に録音技師がフィールド・レコーディングで活用する聴覚的な感受性がある程度一般化した、という事態も想定できるかもしれない。つまり、世界の音に耳を澄ませるという感受性が単なる観念的な物言いではなく技術的なレベルで再現可能なものと感じられてきたのだ、と言えるかもしれない。
あるいは、小さな音デバイスを大量に容易に作ることが出来るようになったという技術的制約(の緩和)という事態も念頭におくべきだろう。
いずれにせよ、こうした多音源サウンド・インスタレーションの背景に、技術的な条件の緩和という事態を指摘しておきたい。そのことは、こうした多音源サウンド・インスタレーション作品とその経験に歴史性が関与していることを示すことだろうから。


この作品と一緒に展示されていたもうひとつの作品も面白かったです。名前は不明で、天井から薄い鉄板がぶら下げられていて、その鉄板が天井のモーターの回転に従って揺れる作品(360°ではなく120°くらいだけモーターは回転するので、鉄板は揺れる)でした。揺れるときに鉄板は、とても小さな音量で、軋む音を立てる。また、鉄板はちょうど人の耳の高さくらいのところで揺れるように吊り下げられている。なので、僕らは鉄板に耳を近づけることができる。耳を近づけると、そのほんの些細な鉄板の軋み音が、まるで雷や台風のような轟音に聞こえる(微細なディティルがある)ことに気付く。そういう作品でした。
また、難波に行く前に見た八木良太さん(http://lyt.jp)の鉄の円盤をコロコロ転がす作品も、最先端のテクノロジーを使う技術誇示型の作品ではなく、平易な技術を使って事物の面白い振る舞いを引き出し、良い作品経験を実現する面白い作品でした。
(→当日のメモ



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