2018年8月27日月曜日

メモ:野中広務、辛淑玉『差別と日本人ーーまだ差別の歴史は終わっていない』(角川新書、2009年6月9日)

https://www.facebook.com/katsushi.nakagawa.9/posts/10216392453221033?notif_id=1535453127694601&notif_t=feedback_reaction_generic

メモ:野中広務、辛淑玉『差別と日本人ーーまだ差別の歴史は終わっていない』(角川新書、2009年6月9日)
実家から持ち帰ってきた本のひとつ。まだ元気な頃の父親が、出たばかりのこの新書を買って、2009.11.26に読んだらしい。部落と在日のさまざまな差別について、野中広務と辛淑玉が互いに違う立場から語り合っている。
「差別」の解消のために真正面から取り組んできたと政治家が語る言葉は、今や珍しくも新鮮で、頼もしく感じられた。また、自民党の政治家の言葉なのに「直截な言葉」に聞こえた。この新書から10年も経ってないのに。
〈どんな屁理屈こねても差別が正当化されるわけなんかないのに、なのにいつまでも解消されないくらい「差別」問題は人間の自尊感情などに根深く潜むものなので、せめて(自民党に限らず)政治家は、イデオロギーの違いはあれど、その程度のことは分かったうえで、自分の支持者以外の人も含めたたくさんの人のために働くべきだ〉というのは「常識」だと思っていたけど、ここ数年でそういうのが「常識」じゃなくなってきたことを、改めて気付かされた。
薄ら寒く恐ろしい。
僕が戦後民主主義的なイデオロギーの色濃い両親に育てられた「良い子」だったからでもあるだろうけど。
 

 
最後にふたりとも家族のことに言及している部分で少し泣きそうになってしまった。そこも含めて良い対談本だと思いました。
  

 
死んだ父親は左寄りの高校教師で、戦前生まれだけど徴兵はされなくて、高校出てしばらくどこかの工場で働いてから大学に行って演劇やってた人で、丸山眞男の全集があるけど読んだ形跡はない、みたいな人だったけど、この新書は読んだらしい。年取ってから読書量減っていたけど、この新書は短かったし。僕も二時間くらいで読んだ。
コメント

2018年8月26日日曜日

メモ:鈴木昭男「音と場の探求」@和歌山県立近代美術館(0804-1021)


メモ:鈴木昭男「音と場の探求」@和歌山県立近代美術館(0804-1021)
とても充実した展示で驚愕。新作ひとつかふたつかなと予想してたけど、コンパクトな会場ながらも鈴木昭男さんの活動を最初期から現在まで満遍なく振り返る満足感溢れる展示でした。
創作ノートやポスターや展示風景の写真やパフォーマンス風景の写真が展示されていて、それらを見ていくだけで、この頃にこんなことがあったのかあ、よくまあこんな資料が残っていたなあ、とか驚くことしきり。
鈴木昭男さんの活動だけじゃなく、1970年代以降の日本のサウンドアートの展開の重要ないくつかの側面を概観できてしまう。音を使うアートとか変な音楽に関心のある人には見逃せない展示だと思います。
また、会場にはパフォーマンス映像も再生されているし、いくつかの音具も展示してあり、しかもそのうちのひとつは触って音を出しても構わない! 日本のサウンドアートのこととか知らない、という人も面白いと思います。実際、うちの娘も、〈夏休みだから興味ないけど親に連れられて仕方なく美術館に来てみました〉という感じの小学生男子も、触って遊んでました。つまり、アナラポスを触れるわけです。
帰省のついでに家族で行くのではなく、しっかり時間作って見に行けると良かった。会期中にもう一度行けるかもしれないので、その時はじっくり見よう。
参加させてもらってる研究プロジェクトで、鈴木昭男さんの資料整理も少しづつ進捗する予定。こちらも楽しみ。
http://www.momaw.jp/exhibit/after/2018-akiosuzuki.php
コメント
他のリアクションを見る




2018年8月11日土曜日

メモ:2018年8月11日 藤田陽介✖️堀尾寛太『他人の光』@水道橋ftarri







メモ:2018年8月11日 藤田陽介✖️堀尾寛太『他人の光』@水道橋ftarri
藤田陽介✖️堀尾寛太『他人の光』@水道橋ftarri
《音、光、水、電気、あらゆる波を分け隔てなく扱う二人が立ち会う、公演という現象。》
fujita-yosuke.moo.jp/schedule/#421
四月の二人の公演を見れず残念だったので、そのうち是非とも思っていたところ、案外早くにその機会に恵まれた。

四月の公演がどんなものだったかはよく知らないけれど、今回のものは、30名弱のお客さんのいるftarriの店内で、音と光のパフォーマンスを構築していく、というものだった。
音と光のパフォーマンスとは、ふたりの持っている色々なわざ(技術、art)ーー光のクルクル、バグパイプ、様々な水音などなどーーを組み合わせてひとつの上演に仕立て上げたものだった。ドローンとかウネリから生み出されるリズムが、音とリズムとの区別を曖昧化させているのが、面白かった。〈音のウネリとリズムの区別〉は細かく考え始めるとめんどくさい問題だ。
あと、鈴の音みたいなのが聞こえてきて面白かった。あれは、水音にフィルターをかけて鈴の音みたいにしたものらしい。

こういうのは、〈ある程度確定的な不確定な演奏〉というより〈即興部分の多いセリフ劇〉に似ているかもしれない。音響テクスチュアは初期電子音楽に似ているかもしれない。
とはいえ、そのふたつをリアルタイムに共存させるというのは、ちょっとばかし珍しいものだろう。Chris Watsonの録音音楽みたいな音をリアルタイムに作り出してるみたいだなあ、と思った(という感想を堀尾さんに言ってしまった。演者に終わったばかりのパフォーマンスの感想を言うのは止した方が良いと思うが、僕はいつもつい言ってしまう。良くない癖だ)。

ということで、おおむね新鮮な気分で僕は楽しんだのだが、同時に、楽譜とか録音メディアとかエクリチュールに基づかない、構築型の上演型パフォーマンスはどうしてもアーチ型になるのかなあとも思った。
つまり、最後は最初に似たことをする、そうすることによってのみ全体と部分をまとめあげていくことができる、とはいえエクリチュールに基づかない構築型のパフォーマンスはあまり細部を構築することはできない、細部の面白さは音や光のパフォーマンスに任せるのが吉なのかもしれない、などと思った。

30人弱のお客さんのうち半数以上が女性だった。なんか不思議だった。
音、光、水は使えるけど、火を使うのは難しいのだろうか。以前、Paul DeMarinisは、自作のfirebirdなどについて説明する時、EU内で火を使って音を出すのは厳しく安全管理された場所でないとできない、それくらい危険なんだ、とか言ってた気もする。
妻にお土産として、堀尾さんのクルクルマシンを買った。何か名前があるようだが分からない。僕は使えないが、妻ならきっとなんとかしてくれることだろう。
コメント


自動代替テキストはありません。

他のリアクションを見る