2019年11月27日水曜日

2019年11月27日メモ:原武史『滝山コミューン1974』(講談社文庫、2010年)

小学生時代の同調圧力の嫌さを1974年と西東京という時代と地域の文脈のなかに位置付けた仕事ではあるが、よくもまあ、こんなに自分のことを覚えてるなあ、と感心した。
小学生時代の友だちの名前、もう覚えてないわあ。


2019年11月26日火曜日

メモ:加藤幹郎『映画とはなにか』

なぜこんなにもevocativeな文章を書けるのだろう…。

映画とは何か 映画学講義
Amazon.co.jpによる
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メモ:岡本隆司『世界史序説――アジア史から一望する』(ちくま新書、2018年)


世界史序説 (ちくま新書)
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いわゆる「世界史」を、アジア(あるいは「ユーラシア」?)を中心に新書一冊で語り直すという野心的な試み。
ただし、残念ながら、読み手の(西洋中心主義的な)世界史に関する知識の浅薄さが故に、その凄さがイマイチ理解できず。
もうちょっと他の勉強してから読み直したら、この視点の新鮮さを理解できるのかもしれない。でも、ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』のような面白さはなさそうな…。

2019年11月24日日曜日

メモ:DVDで『パーソナル・ソング』(2014)


原題は『Alive Inside』。
小泉恭子さんの『音楽をまとう若者』では「パーソナル・ミュージック」「コモン・ミュージック」「スタンダード」という三層構造が明らかにされたが)ここで主としてとりあげられるpersonal musicは(パーソナル・ソングというのは日本語DVDの意訳。原語ではpersonal musicと言っている)、認知症患者たちにとっての「パーソナル・ミュージック」。
「近年、医学的にも注目されるようになった認知症やアルツハイマー患者への音楽療法を題材に描き、2014年サンダンス国際映画祭ドキュメンタリー部門で観客賞を受賞したドキュメンタリー。」
ひとは音楽を聞くと、長年認知症を患っていても、若い頃のことを思い出したり活発になったりする云々といった事例がたくさん出てくる。時々オリヴァー サックスが出てきて解説する――彼には『音楽嗜好症(ミュージコフィリア): 脳神経科医と音楽に憑かれた人々』という著作もある――。音楽療法的なドキュメンタリーでもあり、進化生物学的な観点から音楽を眺めるドキュメンタリーでもあると言えるかもしれない。
職業柄、あらゆる人間には本来的に共通の音楽が潜んでいるみたいな言い方にはそのまま乗っかれないし、患者にiPodを渡すのは患者に薬を出すよりも制度的に難しい云々というアメリカにおける医療問題には関心を持ちにくい。
が、〈認知症のひとをケアする活動である〉という点で、非常に興味深いドキュメンタリーでした。
和歌山の母にCDラジカセを使えるように設置したときにはもう使えなくなっていたので、CDラジカセを使うとかiPodを使うとかいう能力はけっこう高度なのだと思うので、患者本人の自由意志で使うのは無理なんだろうけど。

僕が認知症になったら、どんな音楽を聞きたがるのかな?
僕にとっての「オールタイム・フェイヴァリット」ってなんだ?

メモ:netflixで『トレインスポッティング2』

やはりみんな年取ってからのお話なので、なんとかハッピーエンドっぽくは終わっているけれど、切なくなった。
前作を見たときのことを思い出すからだ。
昔のことはあまり思い出したくないなあ。

2019年11月18日月曜日

メモ:聴象発景 / evala (See by Your Ears) feat. 鈴木昭男(会場:中津万象園・丸亀美術館)

http://www.bansyouen.com/sound/
 以下、雑感。とくに結論もありませんが。

 会場は高松空港から高速バスに一時間乗ってJR丸亀駅に着き、そこからタクシーで1000円強。中津万象園のことは全く知らなかったけど、素晴らしい日本庭園だった。近江八景を再現した庭は、近江の有名な風景を縮小再生産したというべきか、「表象」したというべきか、たぶんどちらでもないのだろうけど、この庭をゆっくりと歩くだけで、何とも豊穣な庭園体験ができるだろうことは、日本に限らずどのような庭園に対しても何の造詣もない僕にも想像がつく。右の道を行けば少し傾斜が急だが魚が跳ねるのを眺めたりしながら池を堪能できる、左の道を行けば池からは遠ざかるが伏見稲荷を模したような鳥居の連続を見物したり小さな竹藪に集まる鳥の騒ぎ声を聞きながらその間を歩いたりすることができる、といった具合に。歩くこと、見ること、聴くこと、ときには雨の匂いを嗅ぐこと、など。身体全体を使って庭を体験できる。聴くことに焦点を置くならば、この庭はいつも、豊穣な「音響的身体」を準備してくれる庭園だ。

 さて、evalaと鈴木昭男とが準備したサウンド・インスタレーションとはいかなるものだったのか。高松空港の一階に設置されていたサウンド・インスタレーションは、それだけでは意図も何もよく分からないものだったが、中津万象園のものは、庭に入ってしばらく歩くと、(1)evalaの仕掛けた音 と (2)中津万象園の元々の音(=庭の音)(=庭師の働く音、他の観(光)客の音、休憩所のエアコン) と (3)庭のものではない音(=庭園の外の車の音、雀の音、など) と、そして、(4)中津万象園が見立てている近江八景の想像上の音 とが混ざり合い誘発し合い際立たせ合っていることに、すぐに気付くものだった。かなりの広さを持つ中津万象園全体において、その4種類の音の存在と混ざり合いに注意深くなる経験、歩きながらの「ながら」聴取でありながら周囲の音の明滅や増減や重なりに注意深く耳をすませる聴取行為、これが中津万象園のサウンド・インスタレーションだった(高松空港のものはそのちょっとした予告でさえなかったようにも思われる)。
 このサウンド・インスタレーションにおいて、evalaの設置した音と鈴木昭男の点音とは〈(1)とともに(2)や(3)や(4)の音(の融合と異化効果)に注意を向かうこと〉を補強する。
 鈴木昭男の点音は絶妙な場所に置かれていた。あるいは、点音があるがゆえに、私たちは、ある一箇所で360全方向に加えて上下にも耳の意識を向けると面白い、ということを思い出すのかもしれず、そういう意味では、時には「点音」の実際の位置はどこでも構わないといえる時もあるかもしれないが、そんなこともなく、「点音」の設置場所はやはり絶妙なのだと思わざるをえない。僕が最も「ここは絶妙だなあ」と思ったのは、庭の最も奥の位置に設置された点音だった。ここはベンチが設置された場所なのでベンチがあるから設置されているだけであるかのようにも思われるのだけど、ただし〈このベンチで音を聴くのとベンチの手前で音を聴くのとでは聴こえてくるものが違うこと〉に気付くという点で、ここに点音が設置されているのは絶妙だった。ベンチに座って音を聴くと、近くの水の音が微妙に茂みにカバーされて少しフィルターがかけられたようになり、水音以外の音も色々と聴こえてくるのだ。そのことに気づかせようと鈴木昭男が狙っているのかどうか、「気づかせよう」と思っているのかどうか、知らない。こういう効果があることは分かっているんじゃないかなあ、と想像するが、僕には、作家が自分の作品の効果を自覚しているのかどうかはよく分からない。
 また、evalaは、鹿威しの音を電子的に加工した音ーーたぶんーーを使ったり、近江八景のフィールド・レコーディングした音を使ったりしていた。すると、庭の遠方から「幽玄な感じ」で鹿威しのような音や高音域のドローンのような音が聞こえてきたりする。そのことにより、遠方から聞こえてくる(1)と(2)庭の音とはその区別が曖昧になり融合する。evalaの音は庭園と庭園の外と想像上の近江の音に融合することで、聴覚的に重層的な場所を作り出すように聴こえた。
 ここで想起しておくべきことは、自然の音はある種のエレクトロアコースティックな音と似ているように聴こえる、ということだ。それは例えば、ヤニク・ダウビーのカエルのフィールド・レコーディングと電子音楽を並べてみると自明だ。カエルの鳴き声のフィールド・レコーディングは、モジュラー・シンセサイザーがウニョウニョグニョグニョしている音に似ている。つまり、ある種の電子音は自然音に似ている/ある種の自然音は電子音に似ている。また、ここでもうひとつ想起しておくべきことは、音響的に類似した音の併置は音を異化する、ということだ。ビル・フォンタナ以降の発見といえるかもしれないし、ケージのヴァリエーションズ・シリーズに端を発すると考えるべきかもしれない。要するに、電子音と自然音は互いを異化する、つまり、互いに互いの新鮮な側面を開示させてくれる。
 また、ここで僕は、箱根の山中で聞いたスーザン・フィリップスのサウンド・インスタレーションを思い出さずにはいられない。あれもまた、箱根山中までわざわざ行った甲斐のある聴取体験だった。気持ち良かった。あれも今日のものもどちらも、徹底的に人工的な音が、擬似自然環境に設置されている。が、スーザン・フィリップスの設置する音は、あくまでもそれ単体でオブジェとしても存在しうる西洋芸術音楽の伝統的な音楽作品ーーラヴェルの管弦楽曲のフルート演奏ーーだったのに対して、evalaの設置する音は、それ単体で電子音楽作品としてもレコード音楽としても流通しうるかもしれないけど、おそらく、それが単体の電子音楽作品やレコード作品でしかないとすれば、少々退屈な音なのではないだろうか。なぜなら、それは、庭の散歩者たちが(2)庭の音 (3)庭の外の音 (4)近江八景の音(という想像上の音) に 注意を払うために、ある程度のスキマを組み込まれているからだ。このスキマとは、時間的な間隔だったりーー電子変調された鹿威しのような音は一分間に一度以下の頻度だったーー、音の層の薄さーーフィールド・レコーディングと庭園の水流の音とを同時に聴いても煩くならない程度の音響テクスチュアだったように感じたーーだったりするだろう。evalaの音はある種の間隙を準備することで周りの音と融合するのだといえるかもしれない。
 ということで、今日は、幾重にも積み重ねられた互いに侵食し合う音響テクスチュアのなかを歩き回り、庭園の造作の素晴らしさも堪能する、という経験をした。横浜から丸亀まで行った甲斐があった。

★メモ:「見立て」について
 そもそも中津万象園が、近江八景を「見立て」た日本庭園である。見立てとは、単なる縮小再生産ではなく、表出とか表現でもなく、広い意味での表象である(が、「広い意味での表象」と述べることにどれほどの意義があるのかは分からない)。
 evalaのフィールド・レコーディングは近江八景でなされたようだ(が、音を聴くだけでそれが近江八景の音であると僕には分からないので、このフィールド・レコーディングの逸話的価値(?)どの程度あるのかはうまく言えない)が、〈フィールド・レコーディングによって把捉された自然音という人工音〉が〈(2)庭の音 (3)庭の外の音 (4)近江八景の音(という想像上の音)〉に「見立て」られているーーあるいは「聴きな」されている?ーーのだろうとは思った。

2019年11月11日月曜日

2019年11月9日土曜日

メモ:海角七号


娘が7時過ぎに寝落ちしたので、『海角七号』。興味深かった。

Wikipediaのこの「ストーリー」はプロットではなくシノプシス、つまり、こんな感じで物語が語られるわけではない。『セデックパレ』の監督の作品だという先入見もあり、もっと重厚な歴史物語のような感じもあるのかもしれないと思っていたが、なんだか、織田裕二主演のトレンディドラマみたいだった。
でも、〈台湾華語、台湾語、日本語(と少しばかりの英語)が同時に使われている感じ〉とか〈第二次世界大戦後に台湾から日本に引き揚げた日本人男性と、それまでは「日本人」でその後「台湾人(あるいは中国人)」になった女性の話を映画世界の背景に据えるという設定〉は、日本のトレンディドラマにはない物珍しい設定で、面白かった。
(でも、主人公のふたりが惹かれ合う伏線がゼロだった気がするなあ。)
JA.WIKIPEDIA.ORG
『海角七号 君想う、国境の南』(かいかくななごう…
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2019年11月8日金曜日

メモ:シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート@箱根ポーラ美術館(スーザン・フィリップス、オリヴァー・ビア、セレスト・ブルシエ=ムジュノ)


森の中に設置されているスピーカーを見物しに来た。箱根山中に印象派の絵が色々あるというのも確かに日本の近代化と西洋化の歴史に深く思いを至らせる不思議なことだと思うが、その裏の遊歩道の木々に設置された11個のスピーカーから、ラヴェルが再生されている、というのも、なんだかシュールな気分。
さすがスーザンフィリップスなのか、おフランス万歳なのか。
ここでラヴェル(の作品を元にしたフルートの演奏)を聴いていると、自分が箱根にいるのか、例えばカッセルの山奥にいるのか、分からなくなる。けど、すぐに自分は箱根にいることを思い出す。そして、〈なんで俺は箱根の山奥でお上品なフルートの演奏を木にくくりつけられたスピーカーから聴いているのだ?〉と不思議に思い始める。日本では近代化とは西洋化のことだったからというのは単純に過ぎる説明だが、箱根には海外からの観光客も多いので、さらに話は複雑にならざるをえないのである。
ともあれ、なので、これはものすごく、展示されるコンテクストを選ぶ作品なんだと思う。館内展示のセレスト・ブルシエ=ムジュノ《クリナメン v.7》とはすごく対照的だ(ここで展示されていたクリナメン、とても良かった。東京都現代美術館で見た時とは違って)。

とはいえ、堪能しました。近くのせせらぎの音が聞こえるのもステキでした。
箱根ポーラ美術館のレストランのランチは美味でした。これも堪能しました。

台風19号の被害は箱根でもまだ残っていて箱根登山鉄道が休止中なので、バスが満員だった。
子育てに問題のない平日箱根日帰り(温泉無し)が可能というのは、幸運というべきか残念というべきか。
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