2019年11月18日月曜日

メモ:聴象発景 / evala (See by Your Ears) feat. 鈴木昭男(会場:中津万象園・丸亀美術館)

http://www.bansyouen.com/sound/
 以下、雑感。とくに結論もありませんが。

 会場は高松空港から高速バスに一時間乗ってJR丸亀駅に着き、そこからタクシーで1000円強。中津万象園のことは全く知らなかったけど、素晴らしい日本庭園だった。近江八景を再現した庭は、近江の有名な風景を縮小再生産したというべきか、「表象」したというべきか、たぶんどちらでもないのだろうけど、この庭をゆっくりと歩くだけで、何とも豊穣な庭園体験ができるだろうことは、日本に限らずどのような庭園に対しても何の造詣もない僕にも想像がつく。右の道を行けば少し傾斜が急だが魚が跳ねるのを眺めたりしながら池を堪能できる、左の道を行けば池からは遠ざかるが伏見稲荷を模したような鳥居の連続を見物したり小さな竹藪に集まる鳥の騒ぎ声を聞きながらその間を歩いたりすることができる、といった具合に。歩くこと、見ること、聴くこと、ときには雨の匂いを嗅ぐこと、など。身体全体を使って庭を体験できる。聴くことに焦点を置くならば、この庭はいつも、豊穣な「音響的身体」を準備してくれる庭園だ。

 さて、evalaと鈴木昭男とが準備したサウンド・インスタレーションとはいかなるものだったのか。高松空港の一階に設置されていたサウンド・インスタレーションは、それだけでは意図も何もよく分からないものだったが、中津万象園のものは、庭に入ってしばらく歩くと、(1)evalaの仕掛けた音 と (2)中津万象園の元々の音(=庭の音)(=庭師の働く音、他の観(光)客の音、休憩所のエアコン) と (3)庭のものではない音(=庭園の外の車の音、雀の音、など) と、そして、(4)中津万象園が見立てている近江八景の想像上の音 とが混ざり合い誘発し合い際立たせ合っていることに、すぐに気付くものだった。かなりの広さを持つ中津万象園全体において、その4種類の音の存在と混ざり合いに注意深くなる経験、歩きながらの「ながら」聴取でありながら周囲の音の明滅や増減や重なりに注意深く耳をすませる聴取行為、これが中津万象園のサウンド・インスタレーションだった(高松空港のものはそのちょっとした予告でさえなかったようにも思われる)。
 このサウンド・インスタレーションにおいて、evalaの設置した音と鈴木昭男の点音とは〈(1)とともに(2)や(3)や(4)の音(の融合と異化効果)に注意を向かうこと〉を補強する。
 鈴木昭男の点音は絶妙な場所に置かれていた。あるいは、点音があるがゆえに、私たちは、ある一箇所で360全方向に加えて上下にも耳の意識を向けると面白い、ということを思い出すのかもしれず、そういう意味では、時には「点音」の実際の位置はどこでも構わないといえる時もあるかもしれないが、そんなこともなく、「点音」の設置場所はやはり絶妙なのだと思わざるをえない。僕が最も「ここは絶妙だなあ」と思ったのは、庭の最も奥の位置に設置された点音だった。ここはベンチが設置された場所なのでベンチがあるから設置されているだけであるかのようにも思われるのだけど、ただし〈このベンチで音を聴くのとベンチの手前で音を聴くのとでは聴こえてくるものが違うこと〉に気付くという点で、ここに点音が設置されているのは絶妙だった。ベンチに座って音を聴くと、近くの水の音が微妙に茂みにカバーされて少しフィルターがかけられたようになり、水音以外の音も色々と聴こえてくるのだ。そのことに気づかせようと鈴木昭男が狙っているのかどうか、「気づかせよう」と思っているのかどうか、知らない。こういう効果があることは分かっているんじゃないかなあ、と想像するが、僕には、作家が自分の作品の効果を自覚しているのかどうかはよく分からない。
 また、evalaは、鹿威しの音を電子的に加工した音ーーたぶんーーを使ったり、近江八景のフィールド・レコーディングした音を使ったりしていた。すると、庭の遠方から「幽玄な感じ」で鹿威しのような音や高音域のドローンのような音が聞こえてきたりする。そのことにより、遠方から聞こえてくる(1)と(2)庭の音とはその区別が曖昧になり融合する。evalaの音は庭園と庭園の外と想像上の近江の音に融合することで、聴覚的に重層的な場所を作り出すように聴こえた。
 ここで想起しておくべきことは、自然の音はある種のエレクトロアコースティックな音と似ているように聴こえる、ということだ。それは例えば、ヤニク・ダウビーのカエルのフィールド・レコーディングと電子音楽を並べてみると自明だ。カエルの鳴き声のフィールド・レコーディングは、モジュラー・シンセサイザーがウニョウニョグニョグニョしている音に似ている。つまり、ある種の電子音は自然音に似ている/ある種の自然音は電子音に似ている。また、ここでもうひとつ想起しておくべきことは、音響的に類似した音の併置は音を異化する、ということだ。ビル・フォンタナ以降の発見といえるかもしれないし、ケージのヴァリエーションズ・シリーズに端を発すると考えるべきかもしれない。要するに、電子音と自然音は互いを異化する、つまり、互いに互いの新鮮な側面を開示させてくれる。
 また、ここで僕は、箱根の山中で聞いたスーザン・フィリップスのサウンド・インスタレーションを思い出さずにはいられない。あれもまた、箱根山中までわざわざ行った甲斐のある聴取体験だった。気持ち良かった。あれも今日のものもどちらも、徹底的に人工的な音が、擬似自然環境に設置されている。が、スーザン・フィリップスの設置する音は、あくまでもそれ単体でオブジェとしても存在しうる西洋芸術音楽の伝統的な音楽作品ーーラヴェルの管弦楽曲のフルート演奏ーーだったのに対して、evalaの設置する音は、それ単体で電子音楽作品としてもレコード音楽としても流通しうるかもしれないけど、おそらく、それが単体の電子音楽作品やレコード作品でしかないとすれば、少々退屈な音なのではないだろうか。なぜなら、それは、庭の散歩者たちが(2)庭の音 (3)庭の外の音 (4)近江八景の音(という想像上の音) に 注意を払うために、ある程度のスキマを組み込まれているからだ。このスキマとは、時間的な間隔だったりーー電子変調された鹿威しのような音は一分間に一度以下の頻度だったーー、音の層の薄さーーフィールド・レコーディングと庭園の水流の音とを同時に聴いても煩くならない程度の音響テクスチュアだったように感じたーーだったりするだろう。evalaの音はある種の間隙を準備することで周りの音と融合するのだといえるかもしれない。
 ということで、今日は、幾重にも積み重ねられた互いに侵食し合う音響テクスチュアのなかを歩き回り、庭園の造作の素晴らしさも堪能する、という経験をした。横浜から丸亀まで行った甲斐があった。

★メモ:「見立て」について
 そもそも中津万象園が、近江八景を「見立て」た日本庭園である。見立てとは、単なる縮小再生産ではなく、表出とか表現でもなく、広い意味での表象である(が、「広い意味での表象」と述べることにどれほどの意義があるのかは分からない)。
 evalaのフィールド・レコーディングは近江八景でなされたようだ(が、音を聴くだけでそれが近江八景の音であると僕には分からないので、このフィールド・レコーディングの逸話的価値(?)どの程度あるのかはうまく言えない)が、〈フィールド・レコーディングによって把捉された自然音という人工音〉が〈(2)庭の音 (3)庭の外の音 (4)近江八景の音(という想像上の音)〉に「見立て」られているーーあるいは「聴きな」されている?ーーのだろうとは思った。

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