2021-12-28

メモ:難波祐子『現代美術キュレーター・ハンドブック』(青弓社、2015年)

現代美術キュレーター・ハンドブック 難波祐子 https://www.amazon.co.jp/dp/B07B4BK8WZ/ref=cm_sw_r_tw_dp_WABJ40H729T7X7KHSXRP

ものすごく具体的なハンドブックだったので、とても面白く読んだ。「展覧会」なるイベントから遠く離れていないけど、その準備の実際的な作業についてはほぼ知らないから、〈ああ、なるほど、へー〉と思いながら読めた。

「経験を積めば、さまざまな検討がある程度つきやすくなるものだが、とにかく最初は一つずつやってみるしかない」(59)。


メモ:Catherine Ceresole: Beauty Lies in the Eye

Catherine Ceresole: Beauty Lies in the Eye   Thurston Moore https://www.amazon.co.jp/dp/3905929430/ref=cm_sw_r_tw_dp_HPVPN35918TTM1F5BNWC 

東京都現代美術館のクリスチャン・マークレー展で、Nadiffで販売されていたクリスチャン・マークレー関連本として購入。この時は「Amazonでも売り切れていたあれやこれやが買えるなんて!」と思っていたが、帰宅してから確認したら、全部Amazonで購入可能になっていた。なんだったんだろう…?

ともあれ、これは〈クリスチャン・マークレーの本〉ではなく、写真家カトリーヌ・セレソールが80年代のNYダウンタウンシーンを撮影した写真集。マークレーのMon Ton Sonなども撮影されている。DNAやソニック・ユースなども。90年代以降の写真もある。

僕は自分の好きな音楽ジャンルを説明する時に「80年代前半のNYのノー・ウェーヴ」というので、ここらへんがまさにぴったりなのだが、写真を見ると、なんだかめんどくさそーだなー、と思ったりもする。これは、狭くて暗いライブハウスやクラブで「変なこと」しようとしていた音楽家たちの写真集。そこにまつわる色々な価値判断の在り方などを想像して、めんどくさそー、と感じるのかもしれない。80年代前半ノー・ウェーヴなら何でも大好き!ではない、ということだと思う。

もちろん〈かっこいー〉とも感じているが。




2021-12-23

塩尻かおり『かおりの生態学 葉の香りがつなげる生き物たち』(共立出版、2021年)


龍谷大学の塩尻かおりさんからご恵投いただきました。

塩尻かおり『かおりの生態学 葉の香りがつなげる生き物たち』(共立出版、2021年)

かおりが虫や植物の行動やコミュニケーションにおいてどのような役割を果たしているかを分かりやすく説明した本です。自然科学です。130ページほど。専門的内容を分かりやすく説明しているので、まったくの専門外の僕も、ざらっと短時間でへー、ほー、と言いながら斜め読みしてしまいました。

こういうのをなんと言うのか知らないけど、どうやら「実験生態学」という呼び方があるらしく、研究方法が面白いです。研究室で顕微鏡を覗いて、かおり成分の化学反応を確かめるとかではなく、もっとアウトドアなやり方です。例えば、〈ある植物が匂いに対してどのように反応するかを調べるために、人があまり来ない山中で、その植物の何十体かの枝を切り、そこにナイロン袋をかけて、それを1日後、2日後、7日後…に外す、という実験を行うことで、枝を切られたその植物の隣の枝がどのような反応を示すか〉を調べる、みたいなことをしています。具体的には、車でけっこう遠くの山まで行って、木から枝を取り外して、そして帰ってくる、というのを何日も継続して、やっとデータを得る、という感じです。

美学は五感の研究なので匂いや嗅覚に関する研究もあってしかるべきだけど、現実問題としてはほとんど研究されていないと思いますが、この本は〈自然科学におけるかおりの研究の一事例〉として、人文系の研究者にも分かりやすいです。オススメします。

このひとは僕がカリフォルニアでえらくわちゃわちゃした時にお世話になったひとりなのだけど、フレンドリーなひとなので、UC Davisにいたたくさんの理系のポスドクの人ーーあのひとたち、どうなったんだろうーーと引き合わせてくれたり、この実験にも一度連れて行ってもらったりもしました。袋を被せられた植物の写真、なんとなく見覚えがある。そういえば、僕が帰国する直前に車を貸したら、ちょうどその車が火を吹いて動かくなくなり廃車手続きをしてくれました(廃車手続きも終えてから連絡が来た。怪我なくて良かったよ、ほんと)。

で、久しぶりに連絡があったのです。本が出る、そこには、名前は出てこないけど僕が二箇所に登場する、ということでした。で、なんのことだろう、と思いながら探したのだけど、1つ目は分からなかったけど、2つ目は分かりました。

まず、2つ目の方。

こちらは読んだ途端に思い出しました。そういえば確かに、カリフォルニアからの帰国便で偶然このひとと同じ便で帰国していて、手荷物検査場で会ったことがあった。向こうは何か用事があるみたいだから僕は先に家に帰ろうと思っていたのだけど、手荷物検査されて、追いつかれた。ついでに思い出したのは、そういえば僕は30代になるまで、入国検査のときはどの国でもだいたい検査されてたし、別室に連れて行かれて全身検査されたこともあったなあ、ということです。凶悪そうな顔つきとかではなかったはずなので、たぶんジャンキーとか運び屋とかそういう感じのひとだと怪しまれていたのではないかと思います。30代以降はなくなったなあ。 

1つ目の方は分からなかったのだけど、最初のページに登場していたそうです。

この人は「かおり」という名前なので、「”かおりの生態学”というタイトルで本を書いてみようと思っている」とある友人に言ったところ「ダサい!」と返されたらしく、それが僕だというのです。でも、そんなステキなアイデアに対して僕がそんなこと言うはずないので、それはきっと別人と間違えているのだと思います。

ということで、みなさん、おすすめです。自然科学的なやり方で世界を切り取ると、こんなふうに見えるのだ、とういことがシンプルに提示されています。



2021-12-22

図録に寄稿した「クリスチャン・マークレー再論」には書けなかったメモ

2021年12月22日の夜にDOMMUNEで「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」に関するイベントがあるそうです。神戸にいるし、夜なので見れなさそうですが、言いたいことはいくつかあるので、メモを記録しておきます。5時間もあるイベントってどんな感じなんだろう。

以下は、うまくまとめられなかったので、図録に寄稿した「クリスチャン・マークレー再論」には書けなかったことです。誰か、うまいことブラッシュアップしてください。

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1.マークレーはアートヒストリーを換骨奪胎する。

クリスチャン・マークレーは明快なコンセプトで作品をつくる。さらに、その作品は過去のアートヒストリーの流れに何らかの形で関連しているように見えるが、実際にどういう動きと直接的に関連しているかは、色々な可能性がありそうなので、明確には分からない。マークレーの作品は、過去のアートヒストリーに言及していると感じられなくても魅力的だし、過去のアートヒストリーに言及しているように見えることも、こちらの想像力を掻き立てるので、魅力の一因だ。
例えば、マークレーはレコードを使う。しかし最初からミラン・ニザや刀根康尚を知っていたわけではないらしい。また、Berlin Mixというジョン・ケージのミュージサーカスのような作品(?)も企画するが、〈ケージの問題圏のなかにいることが重要な活動〉をしているわけではない。また、《cyanotypes》という作品は、簡単に言うと、カセットテープ(やカセットから引き出したテープ)を青写真(=日光写真のような技法、サイアノタイプ)で撮影したイメージだが、これは、モホリ=ナジ以降のフォノグラムの伝統にあるものだし、あるいは、そこで生成されるイメージを見ると、抽象表現主義とか幾何抽象などを思い出す。また、2000年前後にたくさん作られていた作品系列に、演奏不可能な楽器シリーズがある。蛇腹部分が長すぎて持てないアコーディオンとかふにゃふにゃのギターとか椅子と一体化したトランペットなど、造形的にとても魅力的な作品たちだが、これらがどういう文脈から出てきたものか、すぐには分からない。Douglas Kahnは、この系列のひとつの足が長すぎて演奏できないドラムセットについて言及する時に、クレス・オルデンバーグのビニールで作られたドラムセットの作品を引き合いに出したりするが、これも直接的に関連するものではない。また、マークレーの他の作品系列とはかなり異なる《Guitar Drag》(2000)という傑作は、明らかに、Gustav Metzgerやフルクサスやパンクロックに関連しているが、そのどれとも異なるし、何よりこれは疑似ドキュメンタリー映像作品である。
マークレーは作品を通じて、音響再生産技術に反応したり、ケージ的な協働の美学を試してみたり、抽象表現主義を参照したり、楽器を視覚美術化するという王道の音響彫刻(?)を制作したりする。マークレーはremaping art historyする、とでもいえるかもしれない。要するに、マークレーの作品はどれも一元的に回収可能な文脈がない、ということなのだが、〈豊かな〉作品とはそもそもそういうものだ、という話かもしれない。

2.マークレーは〈ジャンクなもの〉に注目する。

クリスチャン・マークレーはゴミとか〈ジャンクなもの〉とかを素材にして作品を制作する。マークレーは、あまり注目されないエフェメラや包装紙など日常生活における色々なファウンドイメージを使う。また、《Pub Crawl》という作品がある。これは、ロンドンのパブを出発地としてその周囲を散歩したときに道端で見つけた色々なものを撮影した作品で、11のループ映像を同時に投影する作品らしい。Tom Mortonさんによれば、このマークレーの散歩は(シチュアシオニストのように)English drinking cultureの一端を明らかにするものだし、その散歩で偶然何かを見つけるのはchance encounterなのでケージ的でもあるらしい(Morton, Tom. 2016. “Liquids, Solids.” In Christian Marclay: Liquids, edited by Honey Luard. London: White Cube: 59–64.)(なんだそりゃという気もするが)。2017年のSIAFでもゴミの映像作品が展示されていて、それは《Six New Animations》という作品だったらしい。
マークレーが、アメリカに留学したとき、道端にレコードが捨てられていることに驚き、レコードを使ってアートを作り始めた、というのは、彼が自分のアートの素材に対する基本的な態度を示しているエピソードとして色々に解釈できる。例えば、クリスチャン・マークレーがアートを制作する際の基本的な行動原理は、エディットすること、サンプリングすること、コラージュすることだが、それは言い換えれば、〈資本主義社会において普段はあまり注目されないゴミみたいなファウンド・オブジェやファウンド・イメージを用いること〉である。などなど。
今回の東京の展覧会で最初の部屋には《リサイクル工場のためのプロジェクト》(2005)という作品が展示されているし、ミュージアムショップには、かつてのガラケーを用いた作品が展示されていた。それらを〈ジャンクなもの〉に注目する作品、と考えることもできそうな気がする。

3.マークレーにとって〈現代アート〉とは〈ジャンクなもの〉である。

(これは完全に僕の想像で、マークレー自身がどう考えているかは知らないです。)
以上を組み合わせて考えると、マークレーは、アートワールド(というゴミ捨て場みたいな場所)(≒資本主義社会)から、色々なアートの動向(≒ゴミ)を参照し、それらをエディット、サンプリング、コラージュすることで、アートヒストリーを換骨奪胎するアーティストである、と言えるかもしれない。つまり、マークレーにとってアートワールドとかアートは〈ジャンクなもの〉なのだ、と考えることもできるかもしれない。
もちろん〈ジャンクなもの〉だから価値が低いわけでは決して無い。それは知的に面白かったり美的に刺激的だったりする。ただし、〈ジャンクなもの〉だから、奇妙に高尚なものとなることもない。マークレー作品に僕が感じる〈親しみやすさ〉の原因のひとつはこういうところにもあるのではないか。
ここではアートとは、ゴミ捨て場から物を拾ってきて組み合わせたもの、あるいは、それらを遊ぶような行為、に似ている。それはきっと楽しいことだろう。
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以上、メモです。何か失礼なことを言っているような気もするけど、そういうつもりはまったくないので、「クリスチャン・マークレー再論」に書けなくて良かったような気もします。「再論」を書こうとした時のメモには、他にも、〈マークレーは表層に注目する〉とか〈世界にはゴミとイメージが溢れている〉とか色々なメモも残っていました。そういう〈ジャンクなもの〉を僕が再利用できるかどうかは未定です。