2015-03-21

神戸アートビレッジセンターで『phono/graph』展

藤本由紀夫さんによる展覧会シリーズ。今回は7人(うち2人はグループ)。城一裕くんが参加している。
各々の作品ももちろんそれぞれ面白かったが、白眉は地下の一室を使ったインスタレーション。
暗い部屋には5,6枚のスクリーンが設置され、スライドプロジェクターやプロジェクターから映像が投影され、音声が再生されていた。明示的な物語的内容のないカオティックな視聴覚体験は、今の疲れた僕にはひたすら気持ちよかった。

会場では、幾つかの言語による文字テクストやレコードの溝がスライドやプロジェクターで幾つかのスクリーンに投影されていた。また、シルクスクリーンで制作されたであろう、レコードの溝をモチーフとするグラフィック作品が部屋の中央で、光る机の上に展示されていた。また、おそらくはそのテクストに基づく音響詩の朗読と、楽器ではないなんらかのメカニズムを経由して発せられた、声ではない音響が再生されていた。とはいえおそらくこの部屋は「音響詩の部屋」というわけではない。おそらくこの部屋では、「諸感覚の布置」が改めて問い直されていたのだ。

この部屋では(たいていの部屋がそうだが)、耳には「音・声」が、眼には「文字・記号・図形イメージ」が入ってくる。またこの部屋では(たいていの部屋がそうだが)、聴覚は主として耳によって(時には眼に)駆動されるし、視覚は主として眼によって(時には耳に)駆動される。そして、とりわけこの部屋では、意図的に、目を通じた聴覚の刺激、耳を通じた視覚の刺激といったある種の共感覚的な作用が探られていたように感じられた。具体的には、レコードの溝という音響を連想させる視覚的イメージを採用したり、声ではない音響(なんだったんだろう?)をうまく使うことで光の明滅の印象を変えたり、文字テクストにハイライトを付けることで言語理解の綿密さにアクセントをつけたりするわけだ。おそらく、こうした手段を通じて、phonographを題材に視覚と聴覚という知覚の布置に揺さぶりをかけようとするのが藤本由紀夫の狙いなんだと思う。

また、この部屋では、さらにはおそらく、「声や文字を通じた(言語)理解」の在り方そのものが揺さぶられていたと思った。そもそもphonograph(やその20年前のphonautograph)は、19世紀の発明当初には「自動書記装置」として「も」機能することが期待されていた。つまり、そもそもphonotographとかレコードとか音声記録機器は、音楽再生装置としてよりもむしろ、文字を記録する機械として期待されていた。そして、音や声を記録する機械が登場して以降、人間の「言葉や声を記録・記憶する行為」は大いに変質した。例えば、同じ音声が頭のなかで何度も繰り返されるといった記憶の「トポス」は、レコードが針飛びするという現象が一般的になるまでは、さほどよくあることではなかったらしい(今ではMP3のデータが壊れた場合を想起すれば良いだろうか)。つまり、音声メディアは人間の知覚の在り方を変質させたわけだ。

といったことを考えると、おそらくここでは、「声と文字の記録と理解」という人間の活動の当たり前さ加減が問い直されているのではないだろうか。つまり、「ひとは声と文字を通じて意味のある言葉をやりとりしているように思っているが、果たしてそれはどこまで当たり前のことなのか」という問いが、この展覧会には伏流しているのではないか。だからこそ、このphono/graph展では、「なんだか意味ありげなのにうまく言語化できない瞬間」がたくさんあるのではないか。レコードの溝の拡大されたシルクスクリーンや、プロジェクトされた文字の断片や、溝のないレコード盤などなど。これらは、単なる音響オブジェではなく、声と文字を問い直さんとする作家の努力の断片なのだ。
そういうことを考えながら見て、面白かった。

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