2020年7月14日火曜日

メモ:川崎市岡本太郎美術館で鈴木昭男さんの演奏を聞きながら考えたこと


川崎市岡本太郎美術館でバシェの音響彫刻の展覧会(「F・バシェ生誕100年、日本万国博覧会から50年 音と造形のレゾナンス-バシェ音響彫刻と岡本太郎の共振」)が行われるのを知った当初は、平日に電車で一人で行くつもりだったが、最近のコロナ禍の影響もあり、週末にレンタカーで家族で行くことにした。そもそも、鈴木昭男さんが演奏する12日は日曜だったし。コロナ禍のおかげで会期やイベントは大幅に縮小され、VR映像も公開され、当初はもう観れないだろうと思っていたけれど、「関東でも音響彫刻が演奏される機会を」(2017年05月11日)堪能できて良かった。

日本ではバシェの音響彫刻は1970年の大阪万博で展示されて広く知られるようになったので川崎市岡本太郎美術館でこの展覧会行われたのはぴったりなことなのだが、一緒に行った娘は、まず、太陽の塔のあの顔を見て「怖い」と泣き出し、岡本太郎のいくつかの抽象画の部屋を駆け抜けて、最後の部屋のバシェの音響彫刻5台にたどり着いた頃には、すっかり疲れ切っていた。岡本太郎の恐ろしい顔とバシェの音響彫刻の響きとは娘に対して十分に共振していたと言えよう。まさに音と造形のレゾナンスを娘は体感したわけである。
コロナ対策で短縮された1500-1530のコンサートには、予想以上のたくさんのお客さんがいて、座れないどころではなく鈴木昭男さんの演奏を見るのも難しかったが、久しぶりに鈴木昭男さんの演奏を聞いて、「この人は本当に、何からでも楽しそうに音をひねり出すなあ」と感心した。

バシェの「音響彫刻」について。
久しぶりに見ると、バシェの造形物を「彫刻」と呼ぶのは少しためらわれる。ためらうのは(僕個人の感覚かもしれないが)、鉄筋コンクリートのビルの建築現場にありそうな鉄板と鉄棒のコンビネーションというバシェの音響彫刻独特の形態が、触ると痛そうだからだ。触覚的な感覚を追及する(ことも重要だと僕は思う)「彫刻」かどうかと考えると、なんだか違うんじゃないか、と感じる。まあ、触ると痛い彫刻もあるだろうけど。ジャコメッティとか? 鉄板の共鳴板が互いに逆方向を向く造形は、反発するベクトルの平地は強烈なエネルギーを感じさせるかのようだ、とかも言えるかもしれない。ともあれ、確かにバシェは「サウンド・スカルプチュア」の起源のひとつなのだが、しかし、バシェの造形物を「彫刻」と呼ぶのはなんだかしっくりこない。他に「起源」とされるハリー・ベルトイア、ジャン・ティンゲリー、ロバート・モリスらの作品は、しっくりくる。つまり僕は、バシェの造形物を「創作楽器」の延長線上にあるものとして認識し、「サウンド・スカルプチュア/音響彫刻」というレッテルは〈視覚的造形物として作られた造形物〉により適している、と感じている。

楽器としては、デカイ。
あと、ひとつの楽器のなかに色々な機械式発音メカニズムがあるのが何だか楽しい。打楽器の部分と弦楽器の部分とが組み合わさっていたりする。自動演奏楽器を思い出したりする。また、バシェの音響彫刻は1950年代末以降に作られ始めたので、同時代に電気楽器や電子楽器が飛躍的に発達したことを考えると、あくまでも機械式メカニズムにこだわったことはバシェの音響彫刻の特徴なのだろう。機械式発音メカニズムのなかでも、グラスハーモニカのような(ガラス棒を擦るという)発音メカニズムが採用されているものはあるが、管楽器的な発音メカニズムが採用されていない、というのも特徴と言えるかもしれない。たぶん僕は、バシェの音響彫刻の大げさなところに楽器としての魅力を感じているのではなかろうか。

そういう大げさなものが「今」川崎市岡本太郎美術館で展示されることにはどんな「意味」があるのだろうか。僕にとっては「レコード音楽」以外の音楽体験を実現してくれる機会、として意味と意義があるのだけど、それは他の人にとってもそうなのだろうか。


2020年7月22日 投稿者: BASCHET-JAPAN
バシェ音響彫刻「鈴木昭男コンサート」【バシェ協会YOUTUBEチャンネル】

2020年7月12日日曜日

メモ:ネトフリで映画『ジョーカー』

なんと「救い」のない凄い映画なのだろう。
〈「バットマンのジョーカー」の前日譚〉という体裁で作られているが、これは〈社会のなかで排除され続けた人間が社会に牙をむくに至るまで〉という映画である。バットマンのジョーカーであることが物語には活かされているが(バットマンの父との因縁(というか性格には、ジョーカーの義母がバットマンの父にからんでいっていたわけだが)、それなしでも優れた物語なのに、アメコミのスピンオフみたいな設定で作らないと映画製作できないのだろうか?
『キング・オブ・コメディ』へのオマージュ(?)があることは分かるが、他にも、たくさんのネタが仕込まれていそう。色々語りたくなる映画ではあるし、ということは、優れた映画である証拠だなあ。
参考:2019年10月5日こんなにあった!『ジョーカー』名作映画へのオマージュまとめ など

2020年7月10日金曜日

メモ:遠隔授業のやり方(2020年度前期の場合)


1 はじめに


* 遠隔授業のやり方をまとめておく。いつかまたやることになった時に参考になるだろうし、誰かの役に立つかもしれないし、まとめてみたら自分のやり方を改善するきっかけになるだろうし。

* まずお断りしておくこととして、録画録音を配信するオンデマンド方式については、避けたし今後も避けたいので全く分からない。また、人によって色んなやり方があるだろうけど、多くの人にとって便利なこと/モノとして、学生に語りかける際には相づち係を指名すること、オープンエアのヘッドセットを使うこと、をお勧めしたい。

2 準備の頃に考えていたこと


4月頃にいきなり「遠隔授業すべし」ということになり「やってられるか」と思って約20年ぶりに金髪にした。気分転換になった。

* 「遠隔授業」については既に法令でかなり細かく決められていることを知った。いろいろ細かいことまでしっかりと決められているんだな、ということと、こうやって「大学行政」は「大学」を(良くも悪くも)「縛る」のだな、と思った。

「遠隔授業」は「対面授業」とは異なるメディアで行われるコミュニケーションなので、「対面授業の代替物の提供」を目指さないことを心がけることにした。

* なので、〈自分の講義を録音録画して配信するオンデマンド方式〉は、絶対にやらない!と決めた。

目的を〈学生を刺激すること〉に絞ることにした。というか、そもそも「講義」とは〈学生を刺激する時間〉なのだ、と考えることにした。

* ただし、以下のようなやり方が可能なのは、担当授業の学生数がせいぜい30-40名の時だけ、という気もする。50超えるとしんどいし、3桁超えると無理。

3 授業の設計



3.1 前提1



* 大学が認める授業ツールとしてzoomとMicrosoft teamsと授業支援システム(LMS)があった。4月に試した段階ではTeamsは僕の環境では音と映像の遅延がひどくて使い物にならなかったので、zoomを使うことにした(今はどうなんだろう。使っていないので分からないが)。ゼミの学生と何度か試しているうちに、zoomに「ブレイクアウトルーム」という機能があることを知った。

3.2 前提2


* 前期の授業には「教科書」があった。ナカニシヤで作った『音響メディア史』である。

3.3 方法


* なので、〈毎回、教科書を1章ずつ確認する〉、〈毎回、ブレイクアウトルームを行い学生相互でミーティングした後に簡単な授業内レポートを作成してもらう〉というやり方でいくことに決めた。

* 遠隔授業でブレイクアウトルームをやると、〈日常的に大学に行かず友だちとお喋りできない学生の「お話ししたい欲」も満たせるのではないか〉と思ったが、これはさほど上手くいかなかったような気もする。よく分からないが。


3.4 語学の授業の方法



* 僕は英語の授業も担当している。

* こちらは逆に、使おうと思っていた教科書は辞めて、作文と学生同士のグループワーク中心で運営することにした。日本語作文と英語作文の宿題に授業中に学生同士でコメントを付け合う、という仕組みは、対面授業の時にやっていた形式だが、これは、ZoomのブレイクアウトルームとLMS経由で行うほうが便利ではある。

3.5 諸々の連絡


* メールよりもLMSよりもTeamsよりもZoomのチャットよりもSlack


4 各回の進行




4.1 相づち係



* できるだけ僕が話す「講義」はしないようにしたいが、どうしても多少は話さなければいけない。その際、誰の顔も見ずに誰の反応もうかがえない状態で自分の不安に任せて独り言を言い続けていると、話し過ぎるし疲れる。ので、毎回必ず「相づち係」を指名して、話し相手になってもらうことにした。

これは(僕にとって)良かった。

* ただし、毎回、相づち係の学生と雑談してしまう。大いに反省。


4.2 概略



* 前回の授業内レポートに簡単にコメントし、今回の内容について学生と話しながら概観し、教科書の各章の最後にあるディスカッション課題を少しアレンジして出す。理想としては45分経過したらブレイクアウトルームを始める。授業終了10分前にブレイクアウトルームを終え、次回のために指示をする。

* ただし、けっこう毎回、〈今回の内容の概観〉で時間を使ってしまう。反省。


4.3 ブレイクアウトルーム中



* 何か質問があれば対応できるようにパソコンの前に待機しながら、何か仕事する。一度だけブレイクアウトルーム中の学生のグループ全部に参加してみたが、とくに雑談とかもできないので、それ以降はしていない。


*

4.4 終わり方



終わるときに、ただ〈ミーティングを終了する〉のは突然過ぎるので、毎回、「今週のお別れの歌」を再生している間に学生に抜けて行ってもらうことにしている。週に一曲、授業の終わりごとに必ず聴く歌が僕にはあるわけである。


* 今のところ以下のようなリスト


Katchanが歌うWhat a wonderful world
二村定一が歌うMy Blue Heaven (私の青空) 
戸川純《好き好き大好き》(1985)
大工哲弘の歌う《美しき天然》
THE人生ズ《山》
坂本九《ステキなタイミング》
sakana《ジークコール》
ベートルズ《ごめんなさい》
バートン・クレーン《家へかえりたい》

5 機材


5.1 ヘッドセット


* ハウリング防止のために使うのは当然。

* ちょうど手元に開放型のヘッドセットがあった。これがとても良かった。ヘッドセットの外の音も聞こえると耳に負担も少なく、変に大声にもならず、疲れない。

5.2 WebCam


* 最初、Mac用のWebCamをいちいち隣の部屋から持ってきていたが、そのうち面倒くさくなってきたので、しばらく、Mac miniとiPhoneと両方からzoomにログインしていたが、こちらも面倒になってきた。6月にやっと自分のMac専用のWebCamを手に入れた。が、その頃には自分の顔はあまり映さなくなっていた。

5.3 iPad Pro + Apple pencil


* zoomでiPad Proの画面を共有してApple Pencilを使えば、自分の書いたものを見せることができる。これはゼミやスタジオの学生発表で、レジュメに入れた僕のメモを共有しながら説明するのに役立った。ホワイトボード的な機能も果たす。

6 現状


* あと数回。みんなどう感じているのだろう。

* 「仕方ない」時期なので「仕方ない」のだけど、何かが僕と学生の記憶の隅に残れば良いかな。

7 今後の課題


* 今後というか、下手すれば、後期。まだ何も決まっていないけど。

* 教科書ありきの授業方法なので、教科書がない場合、授業の時間とは別物としての〈学習活動の機会と方法〉を学生に提供するやり方を考える必要があるような気がしている。

秋学期も遠隔授業の場合、このやり方ではできない。履修人数は少ないけど〈大量の視聴覚資料を見聞きさせる〉というタイプの授業をどうすべきか、まだ良いアイデアは浮かばない。

* 〈講義の録音録画の配布〉はやりたくないので、〈各回の授業内容を毎回4000字程度にまとめて、Googleドキュメントで共有して、学生にはそこに注や修正提案や質問を書き込んでもらう〉といったことを考えている。が、まだ内容を詰められない。

* 後期の英語は「演習」で、今までは、〈アメリカのポピュラー音楽史の教科書の輪読と学生プレゼンテーションとグループワークとしての訳文提出〉をやっていたのだけど、どうしたものか。

いちおうコメントカードに目を通すので、人数が無茶苦茶増えると対応できない。

* 実は集中講義はもっと大人数だったのだけど、六月ごろに、八月の集中講義に向けた準備をしたくて「集中講義の方法」について問い合わせしていたら、〈別の人に頼みます〉ということになった。

* 「サウンドスタディーズ」の教科書を作りたい。2万字くらいで教科書のための文章を書いてくれる人をリストアップしてみた。もう少し企画をねってみよう。

* 授業の前も授業の最中も授業の終わった後も家にいる。飽きてきた。

2020年7月7日火曜日

自分への励みと促しとして、2019年度の仕事と2020年度の予定(願望)の備忘録

2019年の年末に書きそこねて(年賀状も返していない…)、2019年度の終わりはコロナ禍で書けず、遅れた。
詳細は https://sites.google.com/site/audibleculture/ を参照のこと

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2019年度の業績
論文
中川克志 2020a 「サウンド・インスタレーション試論――4つの比較軸の提案―― 1/2」 横浜国立大学都市イノベーション研究院(編)『常盤台人間文化論叢』6:63-99。
---. 2020b 「サウンド・インスタレーション試論――4つの比較軸の提案―― 2/2」 『尾道市立大学芸術文化学部紀要』19:83-91。
→リポジトリはまだ未公開、本文 (→2020年9月28日尾道市立大学リポジトリに公開された)
---. 2020c 「サウンド・インスタレーション試論――音響芸術における歴史的かつ理論的背景――」 『横浜国立大学 教育学部 紀要 II.人文科学』22:57-73。


学会発表
NAKAGAWA Katsushi. 2019. “Why did the composer begin to make visual art?: The ambient music and sound art of YOSHIMURA Hiroshi” at the 21st International Congress of Aesthetics (University of Belgrade, Belgrade, Serbia), July, 24th, 2019. (English)
中川克志 2019 「台湾におけるサウンド・アート研究試論――ワン・フーレイ(王福瑞、WANG Fujui)の場合――」 2019年度第四回東部会例会における第70回美学会全国大会研究発表の代替発表 東京芸術大学にて2019年12月14日。

2020年度の業績(予定)
“History of Sound in the Arts in Japan between the 1960s and 1990s: The report on the progress of my study on the history of “sound art” in Japan.”
The project of Dr. Damien CHARRIERAS  (Associate Professor, School of Creative Media, City University of Hong Kong)
都市イノベ紀要にサウンド・スカルプチュア試論
教育紀要に2019年12月の美学会発表
音耳班論文
KKB調査報告
2020年度後半に『音楽とメディア:ゲンダイオンガクからサウンド・アートへ』

辞典項目(そのうち発表されるはず)
:美学の辞典:2項目(「サウンドアート」「聴覚の考古学――レコードやラジオがもたらした感性の変容とは何だったのか」)
:都市科学辞典:2項目(「都市の音(楽)環境」「都市を表象する音楽」) 

学会発表は、2020年10月に美学会発表、12月にIAPMS

2020年7月6日月曜日

メモ:小野龍一《SOUNDSCAPE OF ANXIETY 不安のサウンドスケープ》

https://www.soundscape-anxiety.com/

コロナ禍で稼働していないコンサートホールのサウンドスケープを、ブラウザ上で聴取できる。20箇所以上のコンサート・ホールのサウンドスケープを収集している。6月24日に公開されたもので、これは、7月15-22日の作家の個展に引き継がれるらしい。

〈コロナ禍で稼働していないコンサートホールの「沈黙」〉は確かに今の状況を特徴づけるものかもしれないので、小野の言うように、この「沈黙」が今般のコロナ禍における「特異点」だ、と述べても良いのかもしれない。でも、それより、〈コンサート・ホールが稼働していない時間帯のサウンドスケープ〉を大量に聴けるのが珍しく面白い。コンサート・ホールの写真をクリックすると、それぞれのコンサート・ホールの「沈黙」のサウンドスケープがループ再生されるので、それらをいくつかクリックして複数重ね合わせたものを聴けるのが、なんとも楽しい。

野外空調の音や工事の音やカラスの鳴き声や靴音などが聞こえている。休業中だから改装とかしてるのかもしれない。個々のホールの録音はループされているのかな? 数分再生すると同じ音が聞こえてきたりもするのだけど、ループするタイミングはこちらがクリックするタイミングで異なるので、いわゆるひとつの〈結果的に生成される音響が毎回異なる不確定性の実験音楽〉ってやつになる。
こんな「楽しい感じ」で聴くものかどうかは知らないけど。

2020年7月5日日曜日

メモ:宮台真司, 永田夏来, かがりはるき『音楽が聴けなくなる日』


https://www.amazon.co.jp/dp/B08B5ZQSCB/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_oYufFbTQG7GYG

〈音楽の流通〉について僕は最終的には最大限の関心を持っていないのかもしれない。が、おそらく〈音楽の流通〉こそが「ポピュラー音楽」の本質なのではないだろうか。
「ただ、このロジックを意識しているユーザーはほとんどいないでしょう。レコード会社側でさえ、これが自分たちの都合で作ったシステムだと理解している人間は少ないかもしれない。今のユーザーの多くは、曲ではなくアーティストを消費しているんです。『アーティスト自体が作品』というシステムを音楽業界が作り、ユーザーも無意識に受け入れているのが今の実態です。だとすれば、『作品に罪はない』というのはどの口が言うのかということになりますよね(笑)。例えば以前の佐村河内守さんの件なんて、この構造の最たるものです。作品に罪がないのなら、ゴーストライターがいようがいまいが、本人が障害者であろうがなかろうが、どっちでもいいはずだけど、佐村河内さんの作品が市場から消えても誰も怒らないでしょう」」