2020年1月27日月曜日

メモ:無敗の男 中村喜四郎 全告白


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「だが一方で、中村自身はどんな国家をつくり上げたいのか──。最後の謎はわかったようでわからない結論にしかならなかった。」(『無敗の男 中村喜四郎 全告白 (文春e-book)』(常井 健一 著)より)
まったくそうだなあ、と思った。政治家ってこれこそが重要なんじゃないのか??? なんか不思議だな。


2020年1月24日金曜日

メモ:evala、∈Y∋ "レコーン”、ICCのオープンスタジオとopen possibilities、白髪一雄展、安野太郎展、(アルフレッド・ジャリ『超男性』)

2019年度のICCのオープンスタジオは、すでに行ったことがあるものだったことに行ってから気付いた。
とはいえ、evalaの高解像度のレコード音楽と比較しながらいくつかのサウンドインスタレーションと無響室作品を経験できたし、白髪一雄展を見れたのは、良かった。
しかしまあ、青山とかに行くと、疲れるな。ここらへんにも住宅はあるけど、子育てしてるとどんな感じなんだろう。どこ行っても混んでるし、どこ行っても「ヨソ」から来た人がいっぱいいるし。

◯1100-1210:evalaインビジブル・シネマ「Sea,See,She ─ まだ見ぬ君へ」@スパイラルホール
一回100人くらいの映画上映会。一日4回くらいを三日間。僕は初日の最初。最初の最初だけ、天井の明かりがパッと煌めくが、その後はずっと真暗闇の中でevalaさんの音が続く。タイトルにseaとあるからか、魚の音とか水の音に聞こえる音が多かったように思う。非常灯も消してしまう真っ暗闇のなかの作品上映って、フランシスコ・ロペスとか横浜赤レンガ倉庫のコンテンポラリーダンスで経験したことがあるが、観客の誰かの腕時計のほんの些細な明かりさえも他の人の目にはキツく入ってくるので、つらかった。本人はそのことには気づきもしていなかったのでは無いかと思うが。
ともあれ、僕はそのような「暗闇の中のevala作品再生会」としてこの映画を経験していたのだが、体感で3分の2ほど過ぎたところでやっと、それまでずっと朧げに感じられていた〈目を閉じた状態で目蓋の裏に感じるもの(丹光?)〉が、僕自身の視覚的幻影のようなものではなく、映像作家が制作した映像だったことに気付いた!
びっくりした。
つまり僕は、最初の3分の2は〈A暗闇の中で再生される音だけ〉として、最後の方になってやっと〈B抽象的なイメージ+音〉として、経験した。
Aでは〈具体音と抽象音(というかシンセサイズされた電子音というか))からなるevalaの音響が、驚くほどの高解像度で、360度に配置されたスピーカーを通じて(?)、音響世界を構築できること〉に驚いた。
Bでは〈それほど自律的に聴こえていた音響が、ひとたび視覚イメージと並走するものであることに気付いた途端、僕は、視覚イメージに従属するものとして音響を聴いてしまうこと〉に驚いた。

これは、社会的にどういうタイプの音楽なのだろう。絵画におけるスーパーリアリズムに似ているのかな、と一瞬思ったけど、SHCD的なものとも全く違うし、やっぱり違うな。
CDなどで後から録音物を再体験しても、異なる経験でしか無いから、わざわざ青山まで来たかいはあった。

総じて、非常に高解像度な録音音楽を聴いて、耳がざわつく経験だった。その後、Blockhouseまで歩き、また、原宿からICCまでバスで来て、ICCの後カフェで一休みしながらこのメモを作成しているけど、まだ、ヘッドフォンをつける気にはなれない。また、BlockhouseでもICCでも、サウンドインスタレーション作品を経験したけど、evala作品の聴取経験と比べると、どれも雑だし、甘いと言わざるを得ない。


◯1300-1900:∈Y∋ "レコーン”@Blockhouse
明治神宮前駅とか原宿駅とか
evalaの後なので、西部講堂の汚さなどを思い出し、とてもほっこりした
なんで、あんな風に、レコードを素敵に汚せるのだろう。
ああいう感性は、なんなんだろう。大竹伸朗的な感性というか20年前のパチャママを思い出すというか。

◯ICCのオープンスタジオとopen possibilities
何個か見てやっと、あ、これ、一回見た、と思い出した…。
アジアの作家たちによるサウンドインスタレーション作品たちは、evalaとアイの後だと、ざっくりし過ぎていて面白くなかった。x
→上村洋一:大和田さんの化石の溶ける音を聞く作品みたいだったな。

◯白髪一雄展@東京オペラシティ
何とも安定の懐かしのアヴァンギャルドは、見ていて落ち着く。レトロだ。
この作品のポイントは、絵具が盛り上がっていること、なので、図版でもよく分からないよなあ、と再確認する。
絵具を足で広げると、人はどうしても何らかの秩序に基づいて整理したくなるものだろうから、それを我慢して、できるだけハテンコーにしようとしたのだろう、と想像した。が、いつまでも同じようなことやってて飽きなかったのかなあ、と思った。ポロックがポーリングをしていたのは10年にも満たない限られた時期だけのはずだし。

◯安野太郎 : アンリアライズド・コンポジション「イコン2020-2025」@アートフロントギャラリー(0110-0202
中目黒駅の近く(以前、國學院の帰りにカールステン・ニコライを見に行った場所)

ふいごをガムテープで貼り付けてあったのはなんだろう。

◯アルフレッド・ジャリ『超男性』
「フランス文学」だった。

2020年1月12日日曜日

メモ:心ある機械たちagainについて:「現象」とは何か問題

展示は秀作が多く面白かった。
ひとつ、肯定的でも否定的でもないのだけど、気になった表現(作品といプロフィール欄における)がある。それが「現象」というターム。リーフレットでは、早川祐太さんの作家紹介に「…重力や空気、水の表面張力といった「現象」を取り入れ、彫刻やそれらを構成したインスタレーションの作品を制作。ものの所存に触れる試みとしての作品を制作している。…」とあり、そういうのが気になった。早川さんの作品は面白かった。〈天井から吊るしたペットボトルをくるくる回し、その中の水が一定状態であるかのように見える〉タイプの作品とか。コーヒーカップのなかのコーヒーが常にくるくる渦巻いている作品やA4の紙が水平状態のまま落ちていく作品などを作る片岡純也さんの作品も同様かもしれない。
つまり、これらの作品の説明に「現象」という言葉を使うこと、あるいは、そうした作品を「〈現象〉をテーマにしている」と自分が感じてしまうこと、そういうことが気になった。

言うまでもなく、「現象」という言葉の意味は大きすぎる。「現象」ではないモノやコトなどないのだから、未だ現代的な意味でのアーティストという概念さえなかった17世紀のルネサンスの画家もまた、「現象」を相手にしていた。
しかし、私たちはしばしばあるタイプの事象や現象や行動を「現象」と呼ぶ。これは、今のところはっきりと言葉で表現されていない事柄を主題にしているがゆえに他に何と言えば良いのか分からないので、「現象」という言葉を使っているだけであって、絵画ではないし彫刻でもないしパフォーマンスでもないしマーブルマシンでもないようなものを「現象」と呼んでいるだけなのだろう。David Toopが、(たんにlive installationistとかではなく)梅田哲也や堀尾寛太などをphenomenologistと呼んだのと同じ構造なのだろう。
この「現象」という言葉はあまりにもマジックワード過ぎるし、マジックワードのままでもう何十年も使われ続けているように思う。〈批評的に鋭い表現〉とかでなくて良いので、もう少し明快な言い方はないものか。

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中川 克志さんはBankart Stationにいます。
BankART Stationにて「心ある機械たちagain」
土下座してコーヒーをもらう作品が話題だが、秀作が多かった。
記憶に残ったのは、西原尚さんやら牛島達治さんやらA4の紙が水平のまま落下する作品(片岡純也)やらクルクル回るペットボトル(早川祐太)やら文庫本を文字単位で切り刻んでうねうねくねらせるの(三浦かおり)やら。
作品について考える時に「現象」という言葉が使われることが、気になった。マジックワードみたいなものと考えるべきか。

娘はA4の作品と文字単位の作詞と、マーブルマシン的な作品(川瀬浩介)が面白かったらしい。










2020年1月11日土曜日

メモ:馳星周『長恨歌―不夜城完結編』

kindle unlimited読書。
三作目、ちょっとつまらなかった。自己模倣というか既視感溢れる文章と展開になってしまったので。