人類学者による「実験音楽」の研究。視点が目新しいし単純化しているので、概括的な視点が得られて面白い。でも、議論が単純化され過ぎている側面は大きいので、注意!
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著者は音楽学者でも芸術学者でもなく、とてもまっとうに、人類学者。ネイティヴ・アメリカンのホピ族に関する研究書なども出しているようだ。もう亡くなっているようだ。
なのに、著者は、実験音楽に関心を持っていたため、博士論文の主題に選んだらしい。
「実験音楽」の美的考察とか楽理的考察などはすっ飛ばして、言説や活動状況の考察に集中することで、WWII前の実験音楽よりWWII以後の実験音楽の方が世間の注目を浴びた、とか、WWII以後の実験音楽は大学の保護化において成長した、とか、〈身もふたもないこと〉を述べているように思われること、はこの本の手柄。要約は123-124。
ただし、「だから何?」という思いも消えない。というのも、どうしても、ここで「実験音楽」とされる対象は恣意的に設定された対象でしかないように思われるから。例えば、本書では「実験音楽」について考察する際に、34人の作曲家の言説に基いて「実験音楽」における言説分析を行っている(ch4)。でも、作曲家同士の影響関係とか「質」の問題を考慮せずに、「実験音楽」の「総体」を分析することなぞできるのだろうか?
そこらへん――「実験音楽」の「総体」を分析できるか否かといった問題――を無視することによってこそ明らかになること――実験音楽は大学に保護されてきた、とか〈身もふたもないこと〉――もあろうとは思えど、分析が大味過ぎる感が否めない。
また、そうした欠点も一因だろうけど、本書は「実験音楽」に集中しすぎる余り、議論が単純化されている側面がある。一番目立つのは、
1.実験音楽を〈ヨーロッパ的なエスタブリッシュメントに対する階級闘争の産物〉とする観点
2.実験音楽を〈ヨーロッパ的な芸術音楽に対する、アメリカ的な音楽〉とする観点
を強調し過ぎている点。
じゃあ、ブルースとかジャズとかロックン・ロールとかポピュラー音楽は「音楽」じゃないのか?という話である。
結論として、本書の使い方には注意しなければならない。
実験音楽の一面的な傾向について述べるためにはとても役立つ(アメリカの大学がいかに「音楽」を保護してきたか、とか)。しかし、この議論が妥当する範囲には常に留意すべし!
Cameron, Catherine M. 1996. Dialectic in the Arts: The Rise of Experimentalism in American Music. CT: Praeger Publishers.
Dialectics in the Arts: The Rise of Experimentalism in American Music
Catherine M. Cameron
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