1964年のオリンピックに際しても2020年のオリンピックに際しても、立退を迫られた都営霞ヶ丘アパートの住民が退去するまでのドキュメンタリー。なのだが、このドキュメンタリーは、オリンピックをめぐる政治性について云々したいわけではないようだし、〈国策が下の現場にいる公務員に押し付けられてその皺寄せが弱い立場の住民に来る〉という民主主義社会あるいは資本主義社会における政治的問題についてどうこう言いたいわけでもないらしい。そうした事情については、冒頭では説明されないし、都庁かどこかで住民たちが記者会見している場面が出てきてなんとなく分かるが、分かりやすく説明されているわけではない。このドキュメンタリーは、物語的ではないし説明的ではないし、ある程度事前に内容を知らなければ分かりにくいハイコンテクストな代物だ。このドキュメンタリーは、おそらく、オリンピックのために二回住処を追い出された人たちの状況を、人々にわかりやすく訴えるためのドキュメンタリーではない。
そうではなく、この映画において映し出されるのは、徹底して〈介護に全身を委ねる前の、しかし、明らかに、新しい人生を開拓していこうという段階にはいない老人たちの姿、顔、手、振る舞い〉だった。少なくとも僕にとって、このドキュメンタリーは、人生においてそのような段階にいたった人間の立ち居振る舞いを、じっくりと眺めることができるドキュメンタリーだった。家族以外にそのように高齢の方の顔や動作をじっくりと観察する機会は、あまりない。介護職ならあるのかもしれない。しかし僕は、両親がこのような時期にはもう家を出ていた。帰省を増やして行ったのは結婚してからだし、あるいは、介護帰省が必要になってからだ。仮に万が一ずっと同居していたとしても、僕が見るのは〈家族と同居している老人〉なわけだが、このドキュメンタリーには、なぜか、下の世代の親戚が出てこなかった。
このドキュメンタリーにおいて傑出して優れているのは、カメラワークであり、どのようなショットを撮るかという選別眼だと思う。カメラはすべて固定ショットで、動くショットはなかったように思う。おそらく撮影者なしでカメラだけそこに置いたまま、撮影されたものが多いのだろう。その結果観客が見るのは、老人たちが一人あるいは複数で何かの作業をする様子であり、会話である。年齢を重ねると食事の用意をするのも大変だし、少し高いところにあるものを取るのも大変なので取らなくなるし、特段の意味もないけれど涙が溢れていたりもするものだろう。でも、そうした固定ショットをある程度の時間をかけて見ていると、この人たちがこの空間と丹念に親しんで生きてきたことが、実際に見えてくる。アパートに作った畑の作物に土をかけたり、乱雑にほったらかした衣類がおそらくはその人なりの秩序で整理されているのだろうということが、実際に見えてくる。このように〈実際に見えてくる〉固定ショットがこのドキュメンタリーの傑出した部分だと思う。さすがアジアン・ミュージック・フェスティバルでエモい映像を撮り続けている青山真也である。途中から、出演する老人たちが、アジア各国からやってきた即興演奏家に見えてくる瞬間もあった。まあ、大袈裟な言い方かもしれない。
しかし、出演していた老人たちの何気ない振る舞いや仕草が、かけがえのない所作に見えてくるのは確かである。そして、これは優れたドキュメンタリーであることの必要十分条件だろう。ここに映し出されているのは、人間が動いていることの美しさとかけがえのなさだ。最後のシーン。横を駆けていく高校生たちを眺める老人の笑顔。惚れ惚れする。
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宝塚シネ・ピピアはいわゆるミニシアターなのだけど、サブカルエリート臭とかは感じず、個人所有のものであろう映画関連の本やマンガなどがある待合室が居心地良かったのは、客層に老人が多かったからかもしれない。このビル、下にはコープが入ってるし。と思ったが、〈ミニシアターなるもの〉とその愛好者が(僕も含めて)高齢化している、ということかもしれないな。
映画チケットや映画館内のカフェの飲食やコープの買い物などで駐車場代は出るし、電車で三宮まで行くのも似たような手間だし、あと数ヶ月、この映画館に通うってのは、ありかもしれない。『サマーオブソウル』を見れるのは年末だが。