2011年8月6日土曜日

一回目終了当日の感想

#artandwar2011
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以下、このたんぶらから

たくさんの人が今日のプロジェクションに来てくださいました。ありがとうございます。500人はくだらないけれど1000人にはいかないくらいだったかと思います。始まりや終わりの挨拶はありませんでしたし、淡々とテキストと音声がループされ続けるだけなので、「退屈」だと思った人は多かったかもしれませんが、中川は、たぶん、今日新港ピアにいた(そして従軍経験や被災経験がない)ひとたちのなかでは一、二を争うほどこの作品に感動したのではないかと思います。
たぶんこのプロジェクション作品は、起承転結のあるドラマティックなものではなく、肌に染みこんでくるような作品で、じわじわ来る作品なんだと思いました。
誰か知らない個人が個人的な出来事を語る声が肌に染みこんでくる作品。
とりあえずはこのように名付けておきたいと思います。
面白かったです。
しっかりゆっくり経験してみてください。
(中川)
以下、個人的な感想で、しかもまとまらなかったので、中川個人のブログをご参照ください。

以上、このたんぶらから

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ということで、まとまらなかった。
この言葉の受取人の顔がよく見えていないからだと思う。また、自分のなかでうまく消化していないからだと思う。
何よりも、眠いからだと思う。
でもプロジェクション終了当日の感想なので、メモとして記しておく。
あと二回のうちにもうちょっと消化したい。
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このテキスト・プロジェクション作品―人物インタビュー素材を再生しながら建物にそのトランスクリプションを投影するプロジェクション―は、およそ20分ほどかけてループ再生され続ける作品で、その素材は、War Veteran Vehicleのデンバー、リバプール、ワルシャワ版、そして東北地方で取材した材料を使ったSurvival Projection 2011からとられている。

今日のプロジェクションにはかなりたくさんの人が来た。500人はくだらないが1000人には届かないくらいか。何度もループを見た人もいたし、一度しか見なかった人もたくさんいたと思う。始まりの挨拶も終わりの挨拶もなかったし、淡々とテキストと音声がループされ続けるだけなので、「退屈」だと思った人は多かったと思う。わざわざジープと軍服姿のオペレーターを用意して大きな音声で屋外パブリック・プロジェクションを行っているのに、あまり何も起こらないのでつまらない、と思った人は多かったんじゃないかと思う。

でも、つまらないと思ったのは、この作品が「ドラマティック」なものであるかのように期待していたけれど「ドラマティック」な作品じゃなかったからだと思う。この作品は、そのループを延々と再生し続けるうちに見ているひとの体の中に何かを流し込むための作品で、ドラマティックなことが始まるかのように期待させるかもしれない外見上の形式的な仕掛けは、その何かを現場の空気の中に染み込ませてしまうための仕掛けもしくは単なるお飾りに過ぎなかったんじゃないかと思う。

それは何か。
実はよく分からないのだけど、それは、少なくとも僕にとっては、「退役軍人たちの窮状」とか「津波の被害を語る定型的な言葉」ではなかった。
それはもっと曖昧で、「誰か過去につらいことがあった人が過去の辛いことの断片をなんとなく語っている言葉」だったり「最近起きた自然災害のせいで生じた身辺のちょっとした不都合について幸か不幸かはっきり割り切れない心情について語る言葉」だったりして、つまりおそらく、個別的で個人的だけど特定の何かにまでは還元されないような内容だった(僕は取材旅行に同行していないので、特定の誰かの顔は浮かび上がってこない)。僕は、そういう内容を語る個人の声が延々と続くループに囲まれることで、この作品を、肌に染みこんでくるようなものとして味わったのだと思う。

僕は少し勘違いしていた。これは、とても計画的に練り上げられた進行にのっかってクライマックスに向かって上昇していくような作品なのではないか、と。

なぜそういうものだと勘違いしていたのか?
まず、ヴォディチコさんの仕事ぶりに驚いたのは原因のひとつだ。ヴォディチコさんは、作品の外見上の形式的な仕掛けにいろいろな注文やダメ出しをした。ジープとか軍服姿とか大げさなプロジェクターとか厳格なチェックを経て調整された音質とかトランスクリプション(プロジェクション会場受付で配布していたテキストの書き起こし)の書式とかプロジェクトするフォントのディティルとか、だ。それに今回はこのプロジェクトのスタッフとしてヴォディチコさんの仕事ぶりを横で眺めていたのも大きい。僕は、外見的で形式的な側面こそがこの作品のポイントであるかのように誤解しやすかった環境にいたといえるだろう。ヴォディチコさんは、ジープがまとうべきアウラのようなものやジープのナンバープレートや機材オペレーターの服装にとてもこだわっていた。スタッフの仕事はそれらを何とかすることだったのでそれらに目が行くのは当たり前だ。でも作品としては、ヴォディチコさんがそういうディティルに執拗にこだわるのは、そういう外面的なディティルの完璧さを隠れ蓑に使って、その内側/背後にあるものを暴露するための仕掛けを作るためだったのかもしれない。
それに僕は、このプロジェクション作品を知っている、と誤解していたんだと思う。スタッフとして何回かプロジェクションのテストを見たし、音声素材のノイズ除去やテキストと音声とのシンクロ調整で、プロジェクトされた素材を数十回ないしは数百回は聞いて修正してきたからだ。でも僕は、プロジェクション作品が現実にはどんなふうに投影されるものでどんなふうに見られるものなのか、は知らなかったのだ。

個人的な声が肌に染みこんでくる経験。
この作品の経験を、単純化してこう呼んでみようと思う。
これは「正しい」解釈ではないが、この作品が、「劇的ではないけれど面白い」ことを説明するためには便利な言い方だと思う。
この解釈は、作品制作のプロセスで「公衆」を作り上げたり「パレーシア」としての言説を実現したりしようとするヴォディチコのパブリック・プロジェクションの基本的主旨を言い表してはいない。でも、作品解説やヴォディチコ自身のテクストやDVDからは気づかなかった、ヴォディチコのテキスト・プロジェクション作品が持つ特質のひとつを言い当てていると思う。
これは、「誰か知らない個人が個人的な出来事を語る声」が肌に染みこんでくる経験を与える作品なのだ。肌に声を染み込ませるために、そこに声がある状況をできるだけ「当たり前」のものにするために、ヴォディチコさんは、最初の挨拶も最後の挨拶も不要だと考えたし、起承転結も持たせないように気をつけたのだと思う。これは、「建物が話す」ような劇的な想像力に基づく作品ではなく、むしろ、壁とプロジェクションの光との狭間から搾り出されたような声を掴み上げててかき回し、プロジェクションの現場に満ち溢れさせ、その場にいる人の肌に染み込ませる作品だったのだ。

誰か知らない個人の声が自分の中に染みこんでくる経験を嫌がる人は多いと思う。
でも他人の声を侵入させるのは、「自分」というメカニズムの作動を点検する良い機会だし、なかなか面白い経験だ。ちょっと見てもなんだかよく分からないしつまらねえなあと思うのなら、これを「アートのオブジェ」として見るのはやめて、自分じゃない他人の声が肌に染みこんでくる感性的な経験の機会、とか考えてみると面白いと思う。

自分が知ってる物差しに合わないからつまらないと言うのは、子どもっぽいし自閉的でつまらないでしょ。

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