院のスタジオ授業でリーフレットを作る。実際に人の目に触れるものを作る前に、一度、簡単なものを作ってみる。その簡単なリーフレットのテーマとしてこの展覧会をとりあげることになった(と学生が決めた)。
なので、監修役もしくは相談役なので、見学してきました。
感想はFacebookに逐次メモした通り。
◯まとめ
1.
これは”東南アジア「の」現代美術”(「の」が主格であれ所有格であれ目的格であれ同格であれ)ではない。NY在住の東南アジア出身のアーティストによるグループ展であっても不思議ではない。
2.
僕個人はこの展覧会をさほど「悪い」とは感じないが、この展覧会が「東南アジアの現状に対する誤解を拡散する可能性」を持つことを考えると、「悪い」と判断されても不思議ではない。
3.
とはいえ、「東南アジア(の現状)」にさほどコミットするつもりのない人間からすれば、こうした「東南アジアの現代美術」は、
(1)「日本」も「自分」も西洋中心主義的な視線と思考の産物に過ぎないことを自覚させるものとして、面白い(ところでどうやら、こういう文脈ではサバルタンという言葉は使わないようだ。不勉強だった)。
(2)そういう文脈をすっ飛ばして、NYだけが世界であるかのような価値観のもとで考えると、過去の写真に合成されたグラサンTシャツの作品や、ナウィンはどこ?という等身大の作品は、僕の好みである。「分かりやすいから」だと思う(分かりやすさの快楽に基いて享受しているということは、それらの「現代美術」は僕にとっては「ぽっぷす」なのかもしれない)。
4.
なので、監修役もしくは相談役なので、見学してきました。
感想はFacebookに逐次メモした通り。
◯まとめ
1.
これは”東南アジア「の」現代美術”(「の」が主格であれ所有格であれ目的格であれ同格であれ)ではない。NY在住の東南アジア出身のアーティストによるグループ展であっても不思議ではない。
2.
僕個人はこの展覧会をさほど「悪い」とは感じないが、この展覧会が「東南アジアの現状に対する誤解を拡散する可能性」を持つことを考えると、「悪い」と判断されても不思議ではない。
3.
とはいえ、「東南アジア(の現状)」にさほどコミットするつもりのない人間からすれば、こうした「東南アジアの現代美術」は、
(1)「日本」も「自分」も西洋中心主義的な視線と思考の産物に過ぎないことを自覚させるものとして、面白い(ところでどうやら、こういう文脈ではサバルタンという言葉は使わないようだ。不勉強だった)。
(2)そういう文脈をすっ飛ばして、NYだけが世界であるかのような価値観のもとで考えると、過去の写真に合成されたグラサンTシャツの作品や、ナウィンはどこ?という等身大の作品は、僕の好みである。「分かりやすいから」だと思う(分かりやすさの快楽に基いて享受しているということは、それらの「現代美術」は僕にとっては「ぽっぷす」なのかもしれない)。
4.
あいつらはこの展覧会をどう処理するのだろうか。単に作品紹介で終わってしまっても不思議ではない。
しかし、それは面白くないと思うぞ。
◯Facebookへのメモ
まだログができていないらしい。
FBログ- Facebookのつぶやきを保存してくれるサービス
ここ、サーバーが弱い。
とりあえずは中川のFacebookのページを貼り付けておくとして、ログは近日中に貼り付けて直しておくということにしよう。
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-
- 過去の写真に合成された、グラサンとTシャツの人物。
こういうの、良くあるけど、分かりやすくて好き。
しかしまあ、こういうのを見ると、自分の視線もこの美術館という場所もこの作品を取り囲んでいるだろう諸々の状況も、徹頭徹尾、西洋のものでしかないんだなあ、と痛感する。ここ、日本なのに。
「日本におけるアジア性みたいなもの」は、西洋的な思考に自分が逃れ難く貫かれていることを自覚するものなんだろう。
そう思うと、この展覧会では、「西洋的な思考に自分が逃れ難く貫かれていること」に対する反省がある作品がないのではないか。全部、何かのモノマネに見える。
「現代美術とはNYを中心とする価値観の元に動くアートワールドだ」という理解で動いてるのかもしれないけど、それはそれで良いのかもしれないけど、それを僕がここで見ても、面白いわけがない。
で、アートって、もう少し面白いものだと思うのだが。どうか。 — 場所: 横浜美術館
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