2014-10-11

悪魔のしるし「わが父、ジャコメッティ」@KAAT

6月の試演会を上回る、しかし壮大かつ爽快なポカーンを感じた。
「メタ演劇ドキュメンタリー」と呼ぶことにした。
上演回数重ねるとどう変わっていくのかな?

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1.
登場人物は、悪魔のしるし主催の危口さん、危口さんの実の父である木口さん、新たにキャストとして加わった(6月の試演会にはいなかった)大谷さんという女性の3人。木口さんが、フランスで4年ほど画家修業をした地方画家である実の父を演劇に出してみよう、という思いつきから始まったのが今回の「演劇」。しかし、その試みは当初予期していたよりも困難でなかなか形にならなかったらしい。
ということを、開演して数分後に危口さん本人が「劇中」で語っていた。
あるいは、13時の開演前から大谷さんとお父さんが「お父さん(=地方画家である木口さん)が若いころフランスに留学していた話」をしていたり、13時に危口さんが登場してその後数分間は、お父さんと大谷さんが、劇中の演出のアイデアを危口さんに提案する、という寸劇があり、その後、全員引っ込んで「では始まります」みたいな始め方をしていた。
また、10分か20分毎に危口さんは「実の父とジャコメッティを重ねあわせた演劇を作成する際に直面した困難」に言及していた。

2.
つまりこれは、乱暴に簡単に言ってしまうと、自分が演劇を作るプロセスに言及し続けるメタ演劇だった。
ただし、大上段から演劇について語るメタ演劇ではなく、「演劇を作ることに困惑している自分」を曝け出すことで演劇にぶつかっていくメタ演劇だった。その意味で「心細くもケナゲで勇気あふれる試み」だったような気もする。なんというか、「メタ演劇ドキュメンタリー」(を見せる演劇)とでも言おうか。
既存の演劇と隔絶した舞台を生み出すためにもがく自分と実の父を虚実ないまぜに曝け出しながら、部分部分の演出は才気溢れる天才的なものだった。「お父さんが、木工ボンドと鼻の薬を間違えるエピソードを演出に入れることを提案する映像」を流しながら大谷さんが「自分は将来ひとの記憶に残る女優になりたい、といった夢」を語る部分から、危口さんとお父さんと大谷さんが三人一緒に歩きまわるシーン(そういう部分があったのです)は素晴らしかった。

つまりこれは、危口さんが自分の体を張って、全身で「演劇」にぶつかり戸惑っている様子を見せるメタ演劇だった。危口さんの誠実さとかキュートさが感じられて、とくに、元から危口ファンなひとには堪らなかったろう。僕の後ろの兄ちゃんの笑い声、うるさかったなあ…。

3.
ただし、僕にはこの演劇あるいは危口さんが、何と戦っているのか、なぜ戦っているのか、よく分からなかった。僕にとってはこれが「悪魔のしるし」の初体験だし、「演劇との格闘」にはさして興味がないし。少なくとも共感はできなかった。
また、この「メタ演劇」には(メタ演劇なのだから当然かもしれないが)「物語の筋」がない。
結局のところ、僕は何を見たのだろう。

4.
結局のところ、僕は、この才気溢れる天才の爽快な実験作を見たのだ、と考えておくことにした。
「物語の筋」もないまま、また、メタ演劇としてのテーマに何らかの決着が付けられたようにも思われないまま、一時間ほどの演劇を構成できる演出は天才的というべきだろう。たぶん。
(「才能とはある種の欠落によって構成されている」という言葉も思い出した(僕の言葉だけど)。)

見ている最中に「才気溢れるメタ演劇」という言葉を思いついたので、危口さんは将来、作家の高橋源一郎みたいな存在になると良いのになあ、と思いました。
あと、グーニーさんみたいな存在だなあ、とも思いました。

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