最後のAsian Meeting Festivalを体験したかったので、AMF in 札幌にあわせて札幌国際芸術祭を見た。雑感を記す。固有名詞はできるだけ省く。
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事前にいくつか批判を目にしていたが、僕はとても楽しんだ。ステキな芸術祭だった。まちなかとかモエレ沼公園とか芸術の森とかで、何かがうごめき、会期が終わると消えていく、アーカイヴ化とかパッケージ化されたりされなかったりするモノや事件たちは、色んな人の生活の一部を侵食したりしなかったりするし、そこに巻き込まれた人たちに誤解を生み出したり生み出さなかったりしながら、次の何かの創造を触発する。
札幌市がマッサージされている。
そんな感想を持った。こんな単純なことじゃないだろうし、ディレクターはもっと他のことを考えているだろうけど。
あと、美術のひとって驚くほど音楽に興味がないし、知らないんだろうなあ、と思った。音楽のこと知らないのに大文字のアートの話をする、って不思議だ。それは(現代)美術なのかもしれないが、それは「芸術/アート」のすべてではない、というだけの話なんじゃないか。昔、「アート」の助成金関連の審査会会議で、「美術」のことだけを「アート」と呼ぶ他の審査員たちに強烈な違和感を抱いたことを思い出した。僕は、音楽も高尚なアートなんだと言いたいわけじゃない。「芸術/アート」が高尚である必要はない、と言いたい。
現代音楽の作曲家の多くも今回の札幌国際芸術祭にあまり関心がないと聞いたが、それは、音楽にも色々あるってことを知らないか「他の音楽」に興味が無いからではないか。芸術祭に何か物申している人は多いけど、そもそも、この芸術祭をあまりきちんと見ていないんじゃないかな、と思った。テラコヤーツ「土砂」に行ったのか? また、札幌国際芸術祭は「サウンド・アート」の展覧会ではなかったので、札幌国際芸術祭の感想としてサウンド・アートが云々と述べるって、何見たのかな。モエレ沼がすげえことには賛同するけど、ふだん意識しない音を聞かせようとする作品って鈴木昭男さんの《点音》のことかな。でも、美術館に展示された《点音》の感想としては粗雑な気がする。
色々思ったが、たぶん、たんに、文脈が違うとか(具体的あるいは言説上の)既得権益の争奪戦であるとか「文化とは何か」という視点が違うとか、その程度のことなんじゃないか。
芸術祭において大切なものは何か。それは、パッケージ化されたアート(美術に限らず)を何らかの文脈の中に位置づけて何らかの歴史や地図の中に提示してみせることか。あるいは、何かお祭りのようなものを同時多発的に仕掛けることでそれを体験する人に何かを引き起こすことか。もちろん後者も「文化」だし「芸術」だ。と言えるかどうかという程度の話なんじゃないかな。
別に札幌市全体がマッサージされる必要もないだろうし、「作品」がアーカイブ化されたりパッケージ化されたりするかどうかは、これが「芸術」であるかどうかとは、少し別のレベルの話だ。僕も8月のイベントはまったく見れずに残念だ。明日帰るからクロージングイベントを見れずに残念だ。でも僕の生活は続くし、2017年9月の札幌の経験はどこかでなにかの役に立つだろう。芸術ってそんなもんじゃないだろうか。些細なもので、些細な効力しか持たないかもしれないもので、でも、些細なものとかことで人間の生活とか文化は成立しているんじゃないのか。
この芸術祭は「美術」じゃなくて「芸術」祭なので、今後も「芸術」祭として継続していって欲しい。
そんな雑感を抱いた。
横浜に戻ると、こういう雑感をまとめる気力もなくなるだろうし、雑駁だけどとりあえずメモしておく。まだ明日の午前が残っているが、ひとまず。もちろん異論は認める、というか、別に何かを主張しているつもりはない。
眠い。
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この10日間、AMFの一行とか、色んな人と知り会ってお話できて楽しかったなあ。
寂しいなあ。
秋だなあ。
memo: dj sniff
ターンテーブリストって「かっこいい」よなあ。
https://vimeo.com/186301685
まあ、ただ、僕は、田舎から都会に出てきて大学で働供養になった人文学者でもあるので、移動中に田村さんから聞いた話に羨望の念を覚えました。