佐々木敦さんが連載「アートートロジー」で札幌国際芸術祭に触れている回を読んだ。一回目の最後で次回の議論内容に少し期待させつつも、二回目の途中までは作品の簡潔な(とはいえ短い記述で作品の要点をえぐる見事な)記述が続いたので、確かに良い文章だけど、音楽と美術の文脈の違いを検証してくれてるわけでもないし(僕は何となくそれを少し期待していたので)なんだか物足りないなあ、と思っていたのだが、二回目の後半で、芸術祭とは何かという問題を論じることから議論を展開し、簡潔に、〈(国際)芸術祭バブルの根底にある様々なジレンマは、芸術(祭)の目的あるいは有用性が問われざるを得ないことにある〉という議論をしていて、その書きぶりに大変感心した。
「そんなものがいったい何の役に立つのか、という極めて現実的な問いに、それら[「国際芸術祭」など]は常に晒されている。そしてその問いは、アートとは、芸術とは、いったい何の役に立つのか、という、より根源的な問いを、その背後に有している。そしてそれは、私の考えでは、それこそが、問うてはならない問い、禁断の問いなのである。芸術は、何かの役に立つというものではない。すぐさま訂正する。芸術は、すぐれた芸術(何がすぐれているのか、という問題もあるのだが)は、間違いなく何かの役に立つのだし、立っている。その「何か」が何であるのかを明確に述べさせようとしてはならない。芸術の価値とは、そうしようとした途端に雲散霧消してしまうようなものなのだ。」(351)
別によくある考え方だとも言えるけど、それが役に立つのか立たないのかが問われ続ける有用性の世間に住んでいると、なかなかこんな感じで広言する機会もないので、シンプルにかっこよく断言してくれているのを読むと、気持ちが良い。
大学人たるもの、もちろん、ここでは、「芸術」という言葉の代わりに「人文学」とか「大学教育」という言葉を代入してみるわけである。
我ながらなんか情けないけど(とりわけ芸術を研究しているものとして)。
なので、急いで次の仕事の準備を始めることにしよう。
佐々木敦「アートートロジー(第6回) 「芸術祭」という問題(その1)」すばる 39.10(2017年10月号):284-293
佐々木敦「アートートロジー(第7回) 「芸術祭」という問題(その2)」すばる 39.11(2017年11月号):342-351