2021年12月22日の夜にDOMMUNEで「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」に関するイベントがあるそうです。神戸にいるし、夜なので見れなさそうですが、言いたいことはいくつかあるので、メモを記録しておきます。5時間もあるイベントってどんな感じなんだろう。
以下は、うまくまとめられなかったので、図録に寄稿した「クリスチャン・マークレー再論」には書けなかったことです。誰か、うまいことブラッシュアップしてください。
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1.マークレーはアートヒストリーを換骨奪胎する。
クリスチャン・マークレーは明快なコンセプトで作品をつくる。さらに、その作品は過去のアートヒストリーの流れに何らかの形で関連しているように見えるが、実際にどういう動きと直接的に関連しているかは、色々な可能性がありそうなので、明確には分からない。マークレーの作品は、過去のアートヒストリーに言及していると感じられなくても魅力的だし、過去のアートヒストリーに言及しているように見えることも、こちらの想像力を掻き立てるので、魅力の一因だ。
例えば、マークレーはレコードを使う。しかし最初からミラン・ニザや刀根康尚を知っていたわけではないらしい。また、Berlin Mixというジョン・ケージのミュージサーカスのような作品(?)も企画するが、〈ケージの問題圏のなかにいることが重要な活動〉をしているわけではない。また、《cyanotypes》という作品は、簡単に言うと、カセットテープ(やカセットから引き出したテープ)を青写真(=日光写真のような技法、サイアノタイプ)で撮影したイメージだが、これは、モホリ=ナジ以降のフォノグラムの伝統にあるものだし、あるいは、そこで生成されるイメージを見ると、抽象表現主義とか幾何抽象などを思い出す。また、2000年前後にたくさん作られていた作品系列に、演奏不可能な楽器シリーズがある。蛇腹部分が長すぎて持てないアコーディオンとかふにゃふにゃのギターとか椅子と一体化したトランペットなど、造形的にとても魅力的な作品たちだが、これらがどういう文脈から出てきたものか、すぐには分からない。Douglas Kahnは、この系列のひとつの足が長すぎて演奏できないドラムセットについて言及する時に、クレス・オルデンバーグのビニールで作られたドラムセットの作品を引き合いに出したりするが、これも直接的に関連するものではない。また、マークレーの他の作品系列とはかなり異なる《Guitar Drag》(2000)という傑作は、明らかに、Gustav Metzgerやフルクサスやパンクロックに関連しているが、そのどれとも異なるし、何よりこれは疑似ドキュメンタリー映像作品である。
マークレーは作品を通じて、音響再生産技術に反応したり、ケージ的な協働の美学を試してみたり、抽象表現主義を参照したり、楽器を視覚美術化するという王道の音響彫刻(?)を制作したりする。マークレーはremaping art historyする、とでもいえるかもしれない。要するに、マークレーの作品はどれも一元的に回収可能な文脈がない、ということなのだが、〈豊かな〉作品とはそもそもそういうものだ、という話かもしれない。
2.マークレーは〈ジャンクなもの〉に注目する。
クリスチャン・マークレーはゴミとか〈ジャンクなもの〉とかを素材にして作品を制作する。マークレーは、あまり注目されないエフェメラや包装紙など日常生活における色々なファウンドイメージを使う。また、《Pub Crawl》という作品がある。これは、ロンドンのパブを出発地としてその周囲を散歩したときに道端で見つけた色々なものを撮影した作品で、11のループ映像を同時に投影する作品らしい。Tom Mortonさんによれば、このマークレーの散歩は(シチュアシオニストのように)English drinking cultureの一端を明らかにするものだし、その散歩で偶然何かを見つけるのはchance encounterなのでケージ的でもあるらしい(Morton, Tom. 2016. “Liquids, Solids.” In Christian Marclay: Liquids, edited by Honey Luard. London: White Cube: 59–64.)(なんだそりゃという気もするが)。2017年のSIAFでもゴミの映像作品が展示されていて、それは《Six New Animations》という作品だったらしい。
マークレーが、アメリカに留学したとき、道端にレコードが捨てられていることに驚き、レコードを使ってアートを作り始めた、というのは、彼が自分のアートの素材に対する基本的な態度を示しているエピソードとして色々に解釈できる。例えば、クリスチャン・マークレーがアートを制作する際の基本的な行動原理は、エディットすること、サンプリングすること、コラージュすることだが、それは言い換えれば、〈資本主義社会において普段はあまり注目されないゴミみたいなファウンド・オブジェやファウンド・イメージを用いること〉である。などなど。
今回の東京の展覧会で最初の部屋には《リサイクル工場のためのプロジェクト》(2005)という作品が展示されているし、ミュージアムショップには、かつてのガラケーを用いた作品が展示されていた。それらを〈ジャンクなもの〉に注目する作品、と考えることもできそうな気がする。
3.マークレーにとって〈現代アート〉とは〈ジャンクなもの〉である。
(これは完全に僕の想像で、マークレー自身がどう考えているかは知らないです。)
以上を組み合わせて考えると、マークレーは、アートワールド(というゴミ捨て場みたいな場所)(≒資本主義社会)から、色々なアートの動向(≒ゴミ)を参照し、それらをエディット、サンプリング、コラージュすることで、アートヒストリーを換骨奪胎するアーティストである、と言えるかもしれない。つまり、マークレーにとってアートワールドとかアートは〈ジャンクなもの〉なのだ、と考えることもできるかもしれない。
もちろん〈ジャンクなもの〉だから価値が低いわけでは決して無い。それは知的に面白かったり美的に刺激的だったりする。ただし、〈ジャンクなもの〉だから、奇妙に高尚なものとなることもない。マークレー作品に僕が感じる〈親しみやすさ〉の原因のひとつはこういうところにもあるのではないか。
ここではアートとは、ゴミ捨て場から物を拾ってきて組み合わせたもの、あるいは、それらを遊ぶような行為、に似ている。それはきっと楽しいことだろう。
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以上、メモです。何か失礼なことを言っているような気もするけど、そういうつもりはまったくないので、「クリスチャン・マークレー再論」に書けなくて良かったような気もします。「再論」を書こうとした時のメモには、他にも、〈マークレーは表層に注目する〉とか〈世界にはゴミとイメージが溢れている〉とか色々なメモも残っていました。そういう〈ジャンクなもの〉を僕が再利用できるかどうかは未定です。
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