2018年1月21日日曜日

メモ:2018年1月21日小杉武久展覧会「音楽のピクニック」@芦屋市立美術博物館

グループ音楽から現代に至るまでの資料展示と、いくつかの作品展示からなる展覧会。
僕のような小杉武久ファンにとっても、資料の多くは未見のものばかりで、もっとじっくり手にとって眺めてみたかった。小杉武久についてあまり知らない人にとっても、展示されている小杉のいくつかの作品は小杉の最良のインスタレーションに属するもので、面白いと思う。
やっぱinterspersionシリーズは飽きない。時折発せられる単調な電子音はとても愛おしくなる。

資料には、グループ音楽のコンサートのチラシ、小泉文夫に提出した卒業論文、フルクサスにおける活動時の諸資料、タージマハール旅行団のコンサートの案内、その後の様々な国際的なコンサートと展覧会における活動まで、今までを概観して多種多様にあった。とても興味をそそられるが、僕はマニアではないのでそのうち細かなものには飽きてくるのだけど、でも、なかなか目を離せなくもある。他人事のように思うが(まあ、確かに他人事なんだが)、こういう資料ってそのうちどうなるんだろう? どこかに保管されるのだろうか。

自分にとって、小杉武久さんのパフォーマンスやサウンドインスタレーションや言葉(書籍『音楽のピクニック』)がとても影響の大きかったことを再認識した。小杉武久さんのパフォーマンスを見るためだけに2002年の神奈川近美の鎌倉館に行ったんだった。
僕は次のように理解している。
小杉武久の音楽あるいはアートは、音と光(聴覚と視覚)を区別しない。音も光も振動もすべては「波」が現象化した形態である。波の映像の前で扇風機の風に揺られるいくつかのラジオ受信機と送信機が各々の周波数を互いにかけあわせるヘテロダイン現象を発生させながら変調し続ける音を発生させる《Catch Wave / Mano-dharma, electronic》では、様々な周波数の「波」が、それぞれの振動数に応じて、音波、振動波、光波、電波として現象化しているだけだ。小杉武久が行うことは、そんな風に知覚不可能な遍在的存在として在る「波」を、知覚可能な形態に現象化すること、である。この理屈で言えば、小杉武久による即興演奏とは、鉱石ラジオが自然界に存在する電波を受診して音を発してしまうように、世界に遍在的に存在している「波」を「受信」して音響として現象化する行為、となる。これは、世界に遍在する沈黙を聴き取ろうとしたジョンケージと構造的に同じである。実験音楽的な精神は、遍在的に不可知なものを知覚化しようとするのだ。
僕は、最初は、こういう理解の延長線上に、実験音楽やサウンドアート(音を使う美術)を理解するようになったように思う。そのうち別の理解の仕方とかも知るようになったけど、これが考え方の基本にある。ムチャ影響されてる。
ということで、良い展覧会でした。来月、もう一度行きます。



今回はすべてのトークに参加できなかったので何らかの形で公開して欲しいのだが、きっとされないのだろうなあ。

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