以下、ミュージサーカスが面白かった理由を説明する練習。
書いてみて少しピントがずれた気もするけど、どうかな―全然関係ないけど、書いてみるとピントがずれていくってのは面白い現象だなあ―。
もっかい体験してみたいけど難しいだろうなあ。
◯短いバージョン:1168
書いてみて少しピントがずれた気もするけど、どうかな―全然関係ないけど、書いてみるとピントがずれていくってのは面白い現象だなあ―。
もっかい体験してみたいけど難しいだろうなあ。
◯短いバージョン:1168
ミュージサーカスは野毛の大道芸フェスティバルみたいで面白かったです。ひとつの演目に集中するんじゃなくて同時に幾つかの演目を鑑賞する場所でした。なのである演目を見る時、それだけじゃなくて他の演目の音や動きも同時に耳と目に入ってくるのが面白かったし、ある演目に飽きたらすぐに別のタイプの演目を見物しに行けるし、今まで触れてこなかったタイプの演目に触れることができたのが面白かったです。
ミュージサーカスの肝は演目の配置の仕方だったんだと思います。演目の場所と順序はランダムに、しかも厳密にランダムに(=主催者の好みを交えずに)決められています。その結果、全体はカオティックだけど完全にデタラメではない感じになります。場所と順序は厳密に規定されているので抜きん出たパフォーマーとかデカイ音が好き勝手に周囲を蹂躙して圧倒することはありません―実際には多少はありましたが。やっぱ灰野敬二は抜きん出るもんですね。良し悪しは別として―。だからこそ個々のパフォーマンスの自律性はしっかりと確保され小さい音のパフォーマンスもアマチュア・ミュージシャンも確固たる存在感を示すことができる、というシステムがミュージサーカスの肝なんだと思います。このシステムは実は、ケージが理想とする社会モデルを提案したものでした。ケージは「アナーキー」な状況と呼びます。政府なしでも、個々の参加者たちが互いを侵食せずにうまく共存して自分たちを活き活きと表現することが可能な社会のことです。
このようなシステムを持つ点で、ミュージサーカスはただの大道芸フェスティバルとは別物です。また、このシステムがあるからこそミュージサーカスにはもうひとつ面白い効果があったように思います。それは、来客者のただの日常的な動作が非日常的なパフォーマンスのように見えてくるという効果です。駄々をこねる子どもと父親との親子の情景が「親子の情景のパフォーマンス」に見えてきたりしたわけです。ミュージサーカスでは世界の見え方が変わります。世界の見え方を変えるという機能を持つ点でミュージサーカスは優れたアート作品なのだと思います。
実際にこのようなお祭り騒ぎを実現するのはかなり大変だと思います。演者を集めたり場所を確保したりそのために各方面と交渉したり。それぞれのパフォーマンスが電源を必要とするかどうかといった配慮を個人的な好みを介入させずに行うシステムを考案しなければいけないし、この作品は「リハーサル」もできません。参加者の大半は「ケージの理念」にはあまり興味も関心もなかったはずですし。だから、アートアクセスあだち「音まち千住の縁」(通称「音まち」)と音楽監督の足立智美さん、すげえなあ、と思います。でも、これは「録音」とか「録画」では全く追体験できないタイプのものなので、またやって欲しいなあ。
◯その他の幾つかの動画
◯その他の幾つかの写真
◯ウェブ上の感想など
みんなツイッターで細かく感想を述べるからか、ブログなどで雑感をまとめているひとがあんまりいなかった。
ちなみに、ツイッターを「ミュージサーカス」で検索すると色々な意見が出てくるけど、まとめるのはなかなか難しい。傾向としてはみんなけっこう楽しんだみたいだが、ツイッター上で発言している人の大半は参加者のようにも思われる。
◯メモ:灰野敬二ダッシュ事件について:1145
「灰野敬二ダッシュ事件」って勝手に呼んでるだけだけど、灰野さんがパフォーマンスを始めてすぐ、ちょっとした事件があって面白かった、という話です。
灰野さんがひとつめの音を出した後、広場の向こう側からドラムの爆音が聞こえてきて、そのことについて近くのスタッフにちょっと文句をいうような顔をした後、突如、そっちにダッシュして行きました―そしてどうやら向こう側にいたバンドのひとに文句を言ったらしい―。
素早くてかっこ良かった。僕は後から追いかけて行ったのだけど、もう冷静になって歩いて戻って来るところでした。
後から見たツイートによると、この「灰野敬二ダッシュ事件」は他の人にとっても面白かったらしく帰り道で「灰野ダッシュごっこ」しながら帰ったものもいたらしいけど、真相は、他のバンドの演奏が終わったと思ったので灰野さんが演奏し始めたらそのバンドの演奏がまだ終わらずドラムロールが始まったのでダッシュで止めにいった、というものだそうです。
「@shiyooo: 一応説明。今日のミュージサーカスで灰野さんが開始早々、ダッシュで他のバンドの所に行った理由は。そのバンドが終わった後に灰野さんが始まる予定で待機していて、時間通りに終わったと思い灰野さんが演奏し始めたら、またドラムロールが始まったので、ダッシュで止めに行ったというのが真実です。」らしい。
1.灰野敬二ダッシュは素早くて素晴らしかったので、とりあえずステキだった。
2.演奏順序や場所は「乱数表」で決めてあるということになっているのだから、ミュージサーカスでは他のバンドの音(の場所や大きさや時間)に神経質になる「べき」ではないのにもかかわらず、「終わったはずの他の音がまた始まったことに怒る」ということは、そこにはミュージサーカス的ではない何かがあった、と推測すべきかもしれない。
3.でもとにかくこういうイベントに灰野敬二が出ていることがスゴイあるいは珍しい気もするし、「ミュージサーカス的な何か」と「灰野敬二的な何か」がぶつかりあった様子が明確に見えたことはとても面白かったので、そんなことで目くじらを立ててはいけない。
4.このミュージサーカスのような「ひとりの表現者のエゴを維持することが極端に困難な状況」で「自分の表現」を邪魔するものに対して怒ってダッシュできる「灰野敬二という表現者」はステキだと思った。ミュージサーカスには「不適切な振る舞い」だとは思うけれど。
ところで、僕はあの場で「灰野敬二という表現者個人の表現」を長時間鑑賞することはできませんでした。
ミュージサーカスという場でなされる「個の表現」はすべて、つまらないものにならざるをえないのだと思います。ミュージサーカスというのは、過剰な「個の表現」は吸いとってしまうシステムをもつ場所なのだと思います。インクの吸い取り紙みたいなもんですね。
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◯長いバージョン:3481
1.
11月3日に、北千住の足立市場で行われたミュージサーカスに行って来ました。「アートアクセス 音まち千住の縁」で企画されたイベントのひとつです。足立智美さんが監督のこれです(あるいはこことかここも参照)。
ミュージサーカスとはジョン・ケージが60年代後半に始めたお祭り騒ぎです。できるだけたくさんの人を集めて同時にパフォーマンスしてもらう、ただし、パフォーマンスを行う場所と時間は個人的な好みは介入させずにランダムに決めるというものです。ランダムに、しかし個人的な好みを介さずに決めることで、全体的にはカオティックだけど何か厳密な規定があるかのように感じられる状況を作り出すことを狙ったものです。全体を支配統御する統治者はいないけれど、完全にデタラメではないからこそ、抜きん出たパフォーマーやデカイ音が周囲を圧倒するということもなく個々のパフォーマンスの自律性はしっかりと確保されている状況。ケージは「アナーキー」とか「サーカス」の状況と呼びます。僕は知らないのですが、アメリカにはこのように色々な場所で同時に色々な演目を見せるサーカスがあるそうです。少なくともケージはそういうサーカスに親しんでいたそうです。だから、ミュージック + サーカス = ミュージサーカス。
色々なタイプの音楽やパフォーマンスが同時進行しているごった煮状態が午後三時から午後五時まで続いて、壮観あるいは躁感で、とても楽しかったです。
2.
いろんな種類の音楽やパフォーマンスが足立市場のなかでバラバラに、どれかひとつだけが浮き立ったりすることはなく、行われていたわけです。
だから、ひとによって経験したものは全く異なります。例えば、僕はこんな感じでした。
和服で琴を演奏している20メートルほど先ではクラシック音楽の歌い方でアリアか何かが歌われていて、遠くからはエレキギターでフュージョンを演奏する音が聞こえてくるし、ひとりだけで踊っているひともいれば、数人が演劇をしていたり、地面においたコタツに入って自分たちの脚本を朗読している四人組もいて、空手の演武をするグループもあれば、ベンチャーズのようなエレキなロックが演奏されている近くでは、キーボードとボーカルの女性デュオが自分たちの音楽を固定客のようなひとたちのために歌っていたり、シタール王子がコスプレしてインド音楽もどきの歌謡曲を演奏していたかと思えば、KORGの電子機器やMacBookを駆使したエレクトロニクスな即興をしている人もいて、あるパフォーマーがシャボン玉が吹き始めると、それを追いかけて子どもたちが駆けまわってました。さらにその向こう側の別の区画では、ガムランが演奏されている近くで落語や読経もあって、その区画では灰野敬二のパフォーマンス―と灰野敬二ダッシュ事件―と、「スピースピー」と小さい音で鳴り続ける「スライド・ホイッスル・オーケストラ」ってのが集団で集まって「スピースピー」とやってました―このパフォーマンスはそれ自体はあまり見応えがないし音も小さいので目立たなかったけどなんとなく「スピースピー」という音は聞こえ続けるので面白かったです。これから「大きい音は目立つけれども小さい音もそれはそれで目立つということ」を学びました―。
十分過ぎる量が無料配布されたねぎま鍋も、マグロの旨味がなんとも絶妙にネギと絡み合っていて、美味しいものでした。
こういうのが二時間。
3.
ガチャガチャしてて面白かったし「ケージのミュージサーカス」を経験できて嬉しかった。なので僕は楽しかった。他のお客さんはどうだったのかというと、意外だったけど、近所の家族連れ(とくに子ども)もけっこう楽しんでいたみたいで、17時の終演が近づいてきても、来場者数は半分にはなっていなかったように思います。だから、この催し事はけっこうみんな楽しんだようです。
では、これはどんな風に面白かったのか?
基本的にはまず第一に、ミュージサーカスはお祭り騒ぎの場所だったので面白かったです。コミケとかMake: MeetingとかCEATEC JAPANみたいに。でも、同人誌や奇妙な自作エレクトロニクス機器や最先端のIT総合展はあまり楽しくないという人でも、いろんなタイプの音楽―アマチュアの演奏するジャズとかロックとかガムランとかサンバとか―があればどれかには近づきやすいし、楽しめたんじゃないでしょうか。要するに野毛の大道芸フェスティバルみたいな場所だったわけです。周りが騒がしいと楽しくなるものです。
また第二に、ミュージサーカスは「ひとつの演目を集中して鑑賞するための場所」ではなかったので面白かったです。「ミュージサーカス」では何かひとつの演目を集中して見ることは可能だけど、必ず他の人の音が聞こえてきます。ミュージサーカスは「同時に幾つかの演目を鑑賞するための場」でした。これは2つの効果をもたらします。
ひとつは、個々の演目の「質」についてはあまり考えなくなるという効果です。常にどこかから他の音が聞こえてきているし、簡単に他の方向に注意が逸れていくのだから、そんなこと(個々の演目の「質」について考察すること)は不可能だしあまり意味はありません。ひとつの演目に飽きたら他の演目を見物しに行けば良いわけです。飽きっぽいあなたにピッタリです。それに、これほどバラエティに富んだ演目をほぼ同時に鑑賞できる場所は自分のiTunes以外には思い当たりません。集中的に鑑賞すべきパフォーマンスは、そのように鑑賞できる場所で鑑賞すべきです。ミュージサーカスはそのための場所ではないということです。
またもうひとつは、色々なタイプのパフォーマンスがあるがゆえに馴染みのないタイプのパフォーマンスに親しむ可能性が増えるという効果です。例えば、なんだか変な電子楽器―コルグのKaossilatorなどの既製品からジョウロにエレクトロニクスを組み込んだものまでありました―や、ノートパソコンを駆使したエレクトロニクスを使った即興演奏や、地面に何十分も寝転んだままのパフォーマーも、アマチュアのジャズやロックあるいはママさんフラダンスチームなどのなかに紛れれば、なんとなく面白そうなものとして鑑賞することもできます―「そういうヘンな音楽を不思議そうにのぞき込む近所のおばあちゃん」とかをたくさん見れたのは面白かったです―。逆もまた真で、そういったタイプの即興演奏に慣れている人間でも、ママさんフラダンスチームのダンスを新鮮な眼で見て、ああ世の中にはこういう活動もあるんだなあ、と思って楽しむこともできたんじゃないでしょうか。
つまりミュージサーカスは「色々なタイプの演目をほぼ同時に同じ場所で鑑賞する経験」と「ひとつの演目に集中せずに様々な演目を並行的に鑑賞するという経験」と「様々な演目に親しむ可能性」を与えてくれる場所として面白かったのだ、と言えるかもしれません。
最後にもう一つ、ミュージサーカスでは、様々な日常的な動作もパフォーマンスに見えてくるという経験が生じることを指摘しておきたいと思います。これもまた、ミュージサーカスの非日常性の原因です。ミュージサーカスのようなカオティックな場で、僕は、見物しているだけの人も何かパフォーマンスしているかのように見えてきました。例えば、パフォーマーたちの「間」で、お父さんに連れられた男の子が駄々をこねて座り込んだり、友だちの家族に女の子が両手を上げて飛び跳ねながらさようならをしていたりする様子が何かのパフォーマンスに見えたのです。非日常的な動作に取り囲まれていたからこそ、ただの日常的な動作が非日常的なパフォーマンスに見えてきたのだと思います。この意味で、ミュージサーカスは世界の見え方を変えてしまう装置として非常に優れたアート作品なのだと言えるでしょう。
4.
実際にこのようなお祭り騒ぎを実現するのはかなり大変だと思います。演者を集めたり場所を確保したりそのために各方面と交渉したり。それぞれのパフォーマンスが電源を必要とするかどうかといった配慮を個人的な好みを介入させずに行うシステムを考案しなければいけないし、この作品は「リハーサル」もできません。参加者の大半は「ケージの理念」にはあまり興味も関心もなかったはずですし。
だから、アートアクセスあだち「音まち千住の縁」(通称「音まち」)と音楽監督の足立智美さん、すげえなあ、と思います。でも、これは「録音」とか「録画」では全く追体験できないタイプのものなので、またやって欲しいなあ。
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