2017-02-24

メモ:『BISING ―ノイズミュージック・フロム・インドネシア(Bising: Noise & Experimental Music in Indonesia)』


Cedrik Fermontさんので知ったインドネシアのノイズ・シーンのドキュメンタリー映画だが日本でも何回か上映されたことがあるものだった
日本や欧米ほど認められていない国でノイズをやることについて語る言葉たち。恩田晃さんのレポートによるとこれは2010年くらいに撮影されたものらしい。内橋和久さんが少しだけ出ていて、80年代大阪に似ていると言っている。
1分にも満たない映像しかなかったけど、Senyawaが飛び抜けて面白そうに見える。先々週くらいにTPAMで来日してたのに、今年も見れなかった。残念。



◯ありがたかった。DIY精神の発露なのだろうか。
https://www.facebook.com/katsushi.nakagawa.9/posts/10211608221658234

◯恩田晃アジア・リサーチ・レポート『アジアの音楽 その過去、現在、そして未来』(2016年7月22日公開)
Riarさんと話したことが書かれている。

◯2015年のアサヒ・アートスクエアでのアジアン・ミーティング・フェスティヴァルのときに上映されていたけど、行けなかった。残念。「行けなかった。残念。」ってのが多いな。今年からこういうのが増えていくので、色々なことのやり方を変えていこう。

2017-02-21

作文:サイン波は世界を幻惑する(かもしれない)

2017年2月22日
中川克志

The SINE WAVE ORCHESTRA(以下、SWO)山口情報センター(YCAM)で展示している《stay》というサウンド・インスタレーションについて作文する。
YCAMでは、いま、「バニシング・メッシュ」という展覧会が開かれており、それは、SWOと「菅野創+やんツー」との二組の展覧会である。また、この展覧会にSWOは、他にも2つの作品を展示している。《A Wave》というタイトルの実験映像と《The SINE WAVE ORCHESTRA in the depths》という三台のスピーカーを使った轟音体験ツアーである。しかしここでは僕は、自分の今後のために、《stay》というサウンド・インスタレーション作品に関するメモだけを残しておく。他の作品に関するメモは自分のevernoteに残してあるし、この展覧会全体については水野勝仁さんが書くと聞いた(→YEARBOOKに書いたらしい)。きっと手堅くまとめてくれるだろうから、以下では、ネチ濃いメモを残しておくことにする。

入場する

これは、銅のワイヤー2本を対にして、床から天井までを結んだサウンド・インスタレーションである。この2本一組の銅線が7×7=49組あり、それはグリッドに配置されている。この2本の銅線を橋渡すように不規則な間隔で何かが挟まれているので、遠目には、ムチャクチャ長い(5メートルくらいある?)はしご落としのおもちゃみたいに見えるかもしれないが、銅線なので、はしごやはしご落としに使えるほど丈夫には見えないし、2本の銅線はねじれている(=スパイラル状に加工されている)(なので、はしご落としのおもちゃには使えない)。実はこの銅線には微弱な電流が流れているし(★註1★)、呼び名があった方が便利なので、銅線のことを「電線」と呼ぶことにする。また、縦に張られているし、2本一組を「電柱」と呼ぶことにする。グリッドに配置された7×7=49組の電柱たちのことを「透明迷路」と呼ぶことにする(実際のところまったく「迷路」ではないのだけど、他に良い名前を思いつかないので)。
来場者は、まず、会場の入り口の台に置いてある、サイン波を発するための小さなデバイスを渡される。100円ライター程度の、掌の上に乗るくらいの、消しゴム程度の大きさのものである。ダイヤルと輪ゴムが付いている。サイン波で鳴く虫に見えなくもないので、とりあえず「バグ」と呼ぶことにする(こういう呼び方について、アーティストたちに何も問い合わせていないし、何の許可もとってない。センスのないネーミングだ!とか怒らないで欲しい)。

来場者は7×7の電柱のなかから好きなのを選び、その電柱の好きな高さにバグを取り付ける。バグの輪ゴムで電線にひっかけるだけというシンプルだけど効果的な手法だ。すると、電線の微弱な電流がバグに入力され、バグはサイン波を発し始める。バグのダイヤルを回すとサイン波の音高を変えることができる。つまり、来場者がすることは、バグを設置すること、サイン波の音高を変えること、7×7の透明迷路の間をウロウロすること、透明迷路のなかをうろついて耳を澄ませること、透明迷路の外側から全体を眺めて耳をすませること、である。音量は操作できないし、たぶん、もうくっついている他の人のバグをいじってもいけないんじゃないかと思う(けど、確かめていないので、もしかしたら他の人のバグをいじっても構わなかったのかもしれない。と、今思った)。
僕は2月18日(金)に始まったこのインスタレーションを19日(土)の11時頃から30分ほど体験した。そのときにはすでに、たぶん100個以上のデバイスが取り付けられていたのだが、すでに、7×7のあるマスから〈隣のマスのバグが発している音〉を聞き分けることは難しかった。ここのバグの音量はその程度のもので、全体的に(まだ?)耳が圧倒されるような音量ではなかった(★註2★)。


外側から聴いて眺める

会場に入ると、7×7の透明迷路の外側も内側もウロウロできる。一見して透明迷路のような公園の遊具もどきに見えるかもしれない(見えないかもしれない)。2本の電線からなる電柱が7×7のグリッドで透明道路を形成している概観は、なんともSF的で、後から考えてみるとほとんど似ていないけれど、竹宮恵子の『地球へ』のマザー・コンピュータのことを思い出したりもした。暗闇の中照らし出されるグリッドとサイン波は、どことなく〈コンピュータが明滅しながら稼働している様子〉を連想させたのだと思う。
7×7の透明迷路にはたくさんのバグがとりついており、サイン波の音色でピーピー鳴いている。一聴してセミがたくさん鳴いているかのようである。サイン波の音高はランダムなので、最終的にこの透明迷路は、〈あらゆる周波数の音がランダムに含まれる音であるホワイトノイズ〉を発するようになるのだろう。ここでは、個々のサイン波とその倍音や、複数のサイン波が結合した複合音や、その複合音の倍音や、異なる音高のサイン波同士が生み出す差音が聞こえてくる。また、周波数の違うサイン波は互いに干渉し合うことでビートを生じさせる。つまり、(実際にはそんな音はないのに)リズムのある音響も聞こえてくる(なので、サイン波しか鳴っていないのに「セミの鳴き声」という印象を持つのだろう)。「聞こえる」というより、正確には、僕たちは様々なサイン波の複合音や倍音や差音やリズムや副次旋律を「聞き出す」のだろう(音に関するこういう理解、間違えていたら、誰か教えてください。マッチョに説教とか自慢とかし始める前に教えてください。納得したら修正します)。

内側に入って移動する

ところで、このサウンド・インスタレーションで一番楽しいのは、この7×7の透明迷路のなかをウロウロできることである。電線は床と天井に取り付けられているので、暖簾をくぐるようにはらいのけたりはできないが、多少太っていても不自由なく、7×7のマスを縦横無尽に移動できる。マスを移動しながら、聴こえてくる音のサウンドスケープの変化に注意を向けるのが楽しい。
マスを移動すると、マスごとに聴こえてくる音が違うことに気づく。このサウンドスケープの変化の仕方が不思議で、僕は30分ほどこの部屋だけで過ごしていたのだった(そして帰りのバスにギリギリの時間になって、焦った)。マスのサウンドスケープはそれぞれ多様なバリエーションを持っており、あるマスだけにバグの発する音が集中し、あるマスではほとんどサイン波が聞こえない、ということはなかった。おそらくその一因は2本の電線がねじられている(=スパイラル状に加工されている)ことにあるのだろう。このねじられた2本の電線にバグが取り付けられるので、必然的に、バグが発する音は様々な方向に発せられることになっていたからだ(★註3★)。7×7のマスではそれぞれ多様なヴァリエーションをもつ音の風景が聴こえる。そしてそれは、展示日程が進むにつれ、来場者がデバイスを取り付けるたびに少しずつ変化していく。《stay》はまず第一に、このように変化し続けるサウンドスケープなのだ、と言えると思う。
そして、このサウンド・インスタレーションが垣間見せるサウンドスケープの魅力は、その内部においても奇妙に幻惑的である。来場者は、7×7の透明迷路を歩き回ることで、サイン波の複合音や倍音や差音やリズムや副次旋律のマスごとに異なるヴァージョン違いを聞き出す。7×7のあるマスにいる時に最もよく聞こえるのは、それぞれのマスを構成する4つの電柱にとりついているデバイスが発する音である。僕たちは、マスを移動しながら、そのマスの外側から聴こえてくる音に耳を傾けながらも、そのマスの内側で鳴いているバグたちのサイン波に呼び止められて、耳を奪われたりもする。
マスを移動した際に不思議だったのは、音色の変化は感じられたが、音量の大小とか音色の複雑さの変化はあまり感じなかったことだ、これは少々予想に反していた。つまり、あるマスから次のマスに移動した時、そこに取り付けられていたバグが前のマスより増減していたら、バグの過密地帯から過疎地帯へ移動した(あるいはその逆)という印象が生じると思っていたのに、そうは感じなかったのだ。これは、あるマスから次のマスに移動した時に、あるマスと次のマスとを、音量の大小や音色の単純複雑という尺度で比較できなかったということでもある。そういうシンプルな尺度で変化を計測できないようなあり方で、マスのなかのサウンドスケープは変化するようなのだ。その変化の仕方に僕は惹きつけられた。
それはおそらく以下のような事情だからではないだろうか。
来場者がはっきりと音源を聞き分けることができるのは、自分が今いるマスの電柱にとりついているバグに耳を近づけたときだけである。少し耳を離すと、もはや、聴こえてくるサイン波とその音源を結び付けるのはほぼ不可能である。また、マスの外側から聴こえてくるサイン波(仮にAとする)にいたっては、そのほとんどは複数のサイン波が結びついた複音だったり差音だったりするので、Aを求めて隣のマスに移動するやいなや、もはやAは聴こえず、サイン波同士の新しい結びつき(仮にBとする)が聴こえてくる。AやBという音を発する単一のバグがいるわけではなく、あるマスにいるときにはサイン波の複合音がAとして聞き出されるが、別のマスに移動するとBとして聞き出されるということだ。あるマスのサウンドスケープは、そのマスを構成する電柱のバグが発するサイン波と、それ以外の45本の電柱にとりついているバグが発するサイン波とで構成される。後者は、遠近感が明瞭に分節されないままに様々なパターンで複合し、来場者がマスを移動するにつれてその複合パターンもAやBに変化する。また、来場者それぞれにとって別々のやり方でそれらのサウンドスケープは聞き出される。すなわち、《stay》のマスを移動することで、来場者は、変幻し続けるサウンドスケープに幻惑され続けるのである。
《stay》というサウンド・インスタレーションは、成長し続ける幻惑的なサウンドスケープを提供するインスタレーションだといえよう。僕は何十分でもそこに留まっていられる(けど、腰が痛いので、30分くらいしかいられなかった)。他の人はせいぜい2,3分で出ていっていたが、少しもったいない愉しみ方だ。もう少し、7×7の透明迷路を歩き回ってみれば良いのに、と僕は思った。

現実世界と比べる

ところで、とはいえ、これは何なのだろう? 以下は中川の夢想である。
 多音源サウンド・インスタレーションだと考えると、これは、クリスティーナ・クービッシュ《エレクトリカル・ウォーク》デヴィッド・チュードア《レインフォレスト》WANG Fujui(王福瑞)《Sound Forest Under the Cloud》やMoMAの「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)で展示されていたTristan Perich《Microtonal Wall》などと同系列の作品と言えるだろう。
つまり、たくさんの音源がそれぞれ少しづつ異なる音響を発することでその場を総体的にカオティックな音響で溢れさせて、来場者は各自の立ち位置にしたがってそれぞれ少しづつ異なるサウンドスケープを聴き出す、というサウンド・インスタレーションである。私見だが、こうした多音源サウンド・インスタレーションの多くは現実世界のサウンドスケープの「モデル」あるいは「サンプル」だと思う。つまり、これらの多音源サウンド・インスタレーションでは、明確に個別的に分離された音源を聴取するのではなく、様々な種類の音源が融合したアモルフな全体を聴取する。このアモルフな全体は、個別特定の何かを聴取するのではなくアモルフな全体を曖昧なままに聴取することの多い「現実世界のサウンドスケープ」に似たものであるという意味で、こうしたサウンド・インスタレーションの多くは、現実のサウンドスケープの「モデル」あるいは「サンプル」だと思う。ただし、そこで用いられる「多音源」がどのような音響を用いるかという点で、それぞれの作品のコンセプトや経験のポイントは変化する。クービッシュの作品ではこの世界に存在する電磁波という自然が知覚される、《Microtonal Wall》では展示会場の入り口の通路に設置された作品が微分音を連射することでこれから他の作品を経験する来場者たちの聴覚を鋭敏にしてくれていた、等々。では、SWOの《stay》はどうか。
この作品もやはり、現実世界のサウンドスケープの「モデル」あるいは「サンプル」だといえよう。この作品で僕たちは、現実のサウンドスケープのように複雑な、近景と遠景が変化し続けるサウンドスケープを経験するからである。しかし、アタリマエのことではあるが、サイン波だけで構成されるこのサウンド・インスタレーションは、音源の種類が一種類に限定されているという点で、現実世界のサウンドスケープと全く異なる。また、サウンドスケープへの耳の傾け方においても、現実世界のサウンドスケープと異なる部分は多い。例えば僕たちは、現実のサウンドスケープに耳をすませる時に常に音源を見失うわけではない。「街の雑踏」に耳をすませる時、信号機の音も人々の雑踏も渾然一体となっているが、それぞれに注意を向けるならばその音源を見失うことはない。信号機の音は信号機の音として認識できるだろう。《stay》という変幻自在なサウンドスケープの経験は、僕たちがある程度大きな規模のサウンドスケープに耳をすませる経験に似ている。例えば、渋谷の交差点の一角で耳をすませるのではなく、高層ビルの屋上から渋谷の街全体に耳をすませてみる時などに。つまり、個別特定の音源を聴き分けるのではなく、アモルフな全体像をアモルフなままに聴取する、という点で、ある程度大規模なサウンドスケープを聴く経験に、このサウンド・インスタレーションの経験は似ているのではないか。おそらくは、こうしたスケールの疑似体験を喚起することが、他の多音源サウンド・インスタレーションと異なる《stay》の眼目のひとつではないか、と僕は思った。

まとめてみる

このような作品に来場者が参加するとは、どのような意味があるのだろうか?
宇宙は巨大な量子コンピュータであり、その中で行動する私たちの行為の一つ一つは、そのコンピュータが計算する際に稼働させるICチップの瞬きの一つである、というお話がある。映画『マトリックス』はその秘密を暴いた映画だった。シミュレーション仮説とかいうらしい。この観点からすれば、《stay》のなかでサイン波を鳴り響かせるバグは、《stay》というサウンドスケープを機能させるためのICチップのひとつである。来場者がバグを取り付ける行為は、《stay》という世界を構築せんとする行為である。一度取り付けた後は、来場者は、その世界を形成するというよりは、その世界が生成するサウンドスケープに幻惑される立場に移行する。取り付けられたバグは、幻惑的で変化し続けるサウンドスケープの生成に貢献する。ただし、それが幻惑的で変化し続けるのは、来場者が新しいバグを付け加えたり、聴き手が透明迷路の中を移動してくれるからであって、個々のバグが変化するからではない。
おそらくは、このバグの単体としての無能性は、この宇宙という巨大な量子コンピュータにおける私たちの無能性に似ている。この宇宙という巨大な量子コンピュータのなかでは私たちの行為の一つ一つにはさしたる意味はなく、総合的に集約されることで初めて意味を持つ。これはもちろん言い方を変えれば、〈私たちの行為の一つ一つがあるからこそ、宇宙は変幻自在に存在することができる〉とも言える。私たちの行為(とバグ)の重要性を肯定的に表現するか否定的に表現するかの違いだろう。
いずれにせよ、《stay》は宇宙における私たちの卑小さ(あるいは偉大さ)を思い出させてくれる。〈そういえば、宇宙にとって人間が果たす役割なんて、せいぜいこの程度だよなあ〉という感じで。この作品の意義のひとつは、そのようなやり方で、来場者に対して世界と人間との関係性について思いを馳せさせることもあるかもしれないこと、なのかもしれないな、と思った。



1)ちなみに、このことを教えてくれた会場監視のバイトをしていた青年(広島大学で文理融合の学部に在籍中の2年生)によれば、この2本が接触するとショートしてブレーカーが落ちるらしい。前日の開催初日にもブレーカーが落ちたらしい。ちなみに彼は、所属学部のレギュレーションで、今年の夏から一年間ドイツに留学するが、しかし所属学部は4年間で卒業することを求めるし、必修科目をたくさん取らないといけないのでつまらない科目もとらないといけないし、講義科目が少なくてディスカッション科目が多いのは面白いけど、忙しいらしい。SWOの新作インスタレーションと、日本の国立大学の将来という中川にとってなんとなく馴染みのある話題とがどのような関係を持ちうるかという問題は、中川にとっては興味深い問題である。SWOのひとり城くんも九州大学准教授なのだから無関係ではないはずだ。とはいえ今は、今後の課題としたい。

2)たった2日で100個程度くっついているけど、この後どんどん増えていったら、どうなるのだろう? 適当にバグを取り外すのか? デバイスはそもそも何個あるのだ?

3)また、スパイラル状に加工されていることには技術的に何か理由があるのかもしれない。そもそも巻き上げ銅線をある程度の張力を保ったまま床から天井まで取り付けるならばスパイラル状にしないと安定しない、など。

2017-02-17

メモ:パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』 高橋啓訳 青土社 1997

本棚に並べっぱなしだったことに気付き、明日の移動中の読書本候補として読んでみた。清々しいくらい読み進められなかった。
こういう断章形式は、ロジックの蓄積ではないので、深みのある思考ではなく連想が続いているだけだと思う。知識の断片の披露を蓄積していくという点で、スノッブだよなあ。
こういうのを読める人は、何をどんな風に読んでいるのだろう。

2017-02-16

[報告]論文を書きました。

1980年代後半の日本における「サウンド・アート」の文脈のいくつかについて、泥臭いことを書きました。
中川克志 2017 「1980年代後半の日本におけるサウンド・アートの文脈に関する試論——〈民族音楽学〉と〈サウンドスケープの思想と音楽教育学〉という文脈の提案」 『國學院大學紀要』55:41-64。

当時を知っている人からすれば言わずもがな、なんでしょうが、僕にとってはそうではないし、こういうことをメモ程度でもまとめている文章を見たこともないので、意味はあるはずです。
とはいえ、なんつうか、ずっと暗中模索している感があります。
金子智太郎くんがartscapeに書いた「音の展開2017:フォーカス」みたい感じのバランスで、僕にもアカデミックな部分と批評的な部分がないものか。
まあ、地道に勉強と調査していきます。
2017年度はちょっと色々と滞りますが、引き続きよろしくお願いします。

ところで、「抜き刷り」ってどうしたら良いんだろう。名刺代わりに渡すことも、もうほとんどないしな。
國學院はリポジトリで公開してくれないのかな。

2017-02-14

メモ:冨士山アネット「ENIAC」

https://www.facebook.com/katsushi.nakagawa.9/posts/10211519741766292?pnref=story

メモ:冨士山アネット「ENIAC」
ややこしいテーマを巡って組み立てていたのに、楽しかった。
石本華江さんというダンサー(世界各地で舞踏も踊りワークショップも行なっている)の履歴を高校生の頃に作った創作ダンスや大学生の頃の公演にまでさかのぼったりして、「(ダンサーの)辞め時」を巡って、長谷川寧さんとの会話が進められる。舞台上では、世界各地のワークショップの様子や高校時代の演劇部員同士の会話が再演されるし、石本さんの故郷のお母さんが映像で登場するし、今まさに眼前で長谷川さんが持っているカメラの画像が投影されたりする。とにかく、そういう演出の手法がとても多彩だった。 
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パフォーマンスアートシアター横浜市
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コメント
中川 克志 そうだ、そういうえば、途中で、舞踏を演じて花粉の部屋の中に歩いていく長谷川さんにコメントする「先生役」を仰せつかったのだった! ああいうのは緊張するよね。舞台をダメにしちゃいけない、とか思うから。