デヴィッド・ダンについて考究する論文を読んだ(この号の『表象』の書評は豪華絢爛な執筆陣とレトリックだったので、ついつい「考究」なんて熟語を使ってしまった)。論文の本筋はあまり理解してないかもしれないけど(申し訳ない)、僕にとって、いくつかの思考の種となる良い論文でした。
1.
90年代以前と以降のデヴィッド・ダンの活動の関係が分かって、勉強になった。デヴィッド・ダンの活動の多くの点がベイトソンに導かれていたことを考えると科学的視座を導入したことは不思議ではないが、僕は、90年代以降のデヴィッド・ダンのそういう活動の意義をあまり理解していなかったので、勉強になった。
とはいえ、論文の本筋はあまり理解できていないと思う。90年代以降のデヴィッド・ダンは、ベイトソン的な「二重記述」を実践的に応用するために、「科学的視座」を導入した、ということらしい。かな? たぶん。
[超テキトーなまとめ:あんまし信用しないでください。誰か修正してください。]
(デヴィッド・ダンの作品は、ある意味、〈自然を理解する〉行為のデモンストレーションだが)自然を理解するために、知覚を通じた自然理解だけに依拠するのではなく、生物学的な自然理解だけに依拠するのでもなく、それらのいくつかの経路をともに作動させる、ということをデヴィッド・ダンは行った。その際に科学的視座は役立った。
ということかな?
要約してみて、なんとテキトーな要約なんだろう、と反省した。誰か僕のこの要約を修正してください。
2.
論文の本筋からは離れるが、「ケージ以降の音響芸術(のひとつの発展的展開としてのデヴィッド・ダン)」という位置付けについて、さほど議論がないまま前提とされていることが、感慨深かった。このことに反対というわけではなく、デヴィッド・ダンによるケージ批判(あるいは相対化)とかダグラス・カーンによるケージ批判(あるいは相対化)が言及されている学術論文を読んだことが、僕にとって、感慨深かった。そりゃ確かに、どちらも1993年の『Music Today』18号に日本語で述べられていることなのだから、「音響芸術」という言い方の歴史性に関心を持つ僕の問題意識は古いのだろうけど。でも、言及されているのをほとんど見たことがない論点なので。
3.
これも論文の本筋からは離れるが、ダンの作品の美的面白さを記述することの難しさ、を感じた。この論文にとってデヴィッド・ダンの作品の面白さの説明は二の次だけど、デヴィッド・ダンの作品が美的に面白いからこそ、デヴィッド・ダンの作品における科学的視座の役割について論じる意義はあるのだから、デヴィッド・ダンの作品の面白さについて語る必要はあるはずだと思う。なんなら〈デヴィッド・ダンの作品の音響現象を録音したレコード音楽の面白さ〉について語ることも可能だと思うのだが、どうだろう。今度日文研の音耳班の研究会で会ったら質問してみよう。
4.
さらに、これも議論の本筋とは関係ないのだが、デヴィッド・ダンという芸術家の活動を、ケージ的な実験音楽以外の文脈、たとえばMAKEとかの文脈に関連付けると面白そうだ。このことについては、僕は今はまだとくに何のアイデアもないけど。
5.
この号の『表象』に掲載されている平倉さんの論文、あまりちゃんと読んでないけど、(僕にとって)珍しい方法論でピカソにアプローチしていて面白いなあ、と思いました。この内容で美術史学会で発表してみて欲しい(そしてどんな反応が返ってくるのかを教えて欲しい)。
あと、書評が豪華だった。で、「論述の価値がその形式に多くを負っていること」(蓮實重彦、p.271)というのはまさにその通りだと思うので、僕はやはり、レトリックに依存する文章というのは、良く言えば苦手だ。まだるっこしい。
なので、東浩紀(お会いしたこと無いので敬称略しておきます)の書評が抜きん出てスゴイなあ、と思いました。
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