和歌山往復の電車内で見た。
松本清張の原作は1960年に読売新聞夕刊に連載されたもの。ダラダラしたエピソードや余計な登場人物が多かったのは、新聞連載だったからだろう。とはいえ、原作は〈前衛音楽界のスターである作曲家和賀英良が最先端の作曲技法を駆使して完全犯罪〉というお話なので、戦後日本に登場した先行世代を徹底的に批判する「ヌーヴォー・ロマン・グループ」なる新進気鋭の若き芸術家集団の描写があったり、具体音楽に関する諸井誠の解説が挟まれたり、可聴域外の音に関する音響工学的な説明が挟まれたり、登場人物の一人による前衛音楽評論などがあり、元現代音楽研究者としては興味津々。
対して、映画は1974(昭和49)年公開で、舞台は1971(昭和46)年に変更。仁義なき戦いとか犬神家の一族とかと同時代の松竹映画。原作のダラダラした枝葉の展開をスッキリ削除し、父と息子(作曲家の和賀)のお話に仕立てていた。
例えば、原作にあったいくつかの展開は一瞬で解決していた――カメダは人名か地名かとか、電車からちぎり捨てられたシャツを線路沿線を歩いて見つけ出すとか、紙吹雪の女のエッセイの書き手とか、その女性の素性とか――。主人公の刑事(丹波哲郎)の家族の描写もなかった)。
何より、「ヌーヴォー・ロマン・グループ」は登場せず、原作では犯人かもしれない人物として描写されていた評論家も登場せず。なので、(原作のネタバレになってしまうが)〈評論家の愛人を超音波で流産させて死に至らしめる完全犯罪〉といったいくつかのエピソードはバッサリ削除されていた。代わりにこの部分は、作曲家(和賀)が、大臣の娘と結婚するために自分の愛人と別れる、という描写になっていた(その後、その愛人は流産して死んでしまうのだが、殺されたという描写はなかった。なんだったんだろう、あのエピソードは…)。1970年の大阪万博が何か関係するのかもとも思ったが、とくになし。和賀の作る音楽は具体音楽でも電子音楽でもなく、ピアノとオーケストラの調性音楽。Wikipediaによると後に夭折した菅野光亮という人物の作曲作品(菅野光亮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E9%87%8E%E5%85%89%E4%BA%AE)。
原作よりはかなりスッキリした物語になっていたが、元現代音楽研究者としてそそられるポイントは減っていたし、話の展開に無理が残っているし、モノローグの説明で物語が進むところも多く、なんか変な映画だなあ、と思って見ていた。が、この映画は名作扱いされることが多い(→これとか:砂の器 | 松竹映画100年の100選 https://movies.shochiku.co.jp/100th/sunanotsuwa/)。そんなに良い映画だとはあまり思わないが、この映画の後半の展開は確かにスゴい。こういうのは他の映画ではあまり見た記憶がない。
映画の後半のいわゆる解決編では、主人公の刑事はおっさんばかりの捜査会議で、作曲家和賀英良が犯人であることを、ハンセン病の父親と放浪してきた子供時代から説き起こして、丹波哲郎のあの顔と声でひたすらモノローグで説明する。そこで、後半の映像は、〈おっさんばかりの捜査会議で犯人の動機などを説明する映像〉と〈新作《宿命》をコンサートで初演する和賀〉と〈ハンセン病の父親と各地を放浪したり巡査に保護されたり父親と別れさせられたり出奔したりする子供時代の和賀〉とのカットバックになり、つまりその3つの映像が交互に続くのだが、それがなんと30分以上続く。すごい。
ひたすら続く説明調のモノローグや誰のものとも分からない説明的な回想シーンは、それだけ見ていると退屈な映画的語法でしかないと思う。しかしこの映画では、このカットバックはいつまで続くのだろうと思っているうちに、ふとある可能性に気づき、驚愕し始めたのだが、まさにそのように進行して、驚愕した。つまり、この長いカットバックを見ているうちに、このカットバックは和賀英良の新曲《ピアノと管弦楽のための組曲 宿命》の演奏が終わるまで続くのではないか、と気づき、そして本当に最後まで演奏し終えて、そして映画も終わるのだ。原作とは違うやり方で、この映画もまた音楽が(影の?)主人公となる驚きの音楽映画だったのだ。
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戦後日本ではなく1970年代の日本の情景は素敵だった。蒲田あたりの路駐の多さとか、秋田に出張した際に瓜を食べながら寺の門に種を吐き出すシーンとか、良い。そういや、原作では「砂の器」って題名の説明はなかったが、映画では少しだけあった。というか、原作には題名の説明がなかったことに気づいた。なぜ息子が母親と一緒に過ごさなかったのかは、原作でも映画でも不明なまま。
主人公の刑事(丹波哲郎)の後輩の名前は「吉村弘」という。原作では「おお、〈前衛音楽界のスターが最先端の作曲技法を駆使して完全犯罪〉、のお話に、80年代日本における環境音楽からサウンド・アートへと至る重要な音楽家吉村弘が出てくるなんて」と思っていた。特に何の意味もないので、どうでもいいといえばどうでもいいけど。
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