これは楽しみ。
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2010年記憶に残るもの ART iT
クリスチャン・マークレー 『The Clock』
クリスチャン・マークレー 『The Clock』
2010 年10月15日–11月13日
ホワイト・キューブ、ロンドン
Christian Marclay - The Clock (2010) © Christian Marclay, courtesy White Cube.
「Clock」(2010)は、数千にもわたる映画作品から、時計が映っている映像の断片を抽出し、現実の時間軸と対応するように編集した、24時間におよぶ映像作品である。2年間かけて制作されたこの作品は、作品中に現れる時間と現実の時間がまったく同時に進むように上映が行われるため、観客はつなぎ合わされた物語の断片を見ながら同時に現実の時間について常に意識することとなる。時計の画像を見ながら、映画の中で時がどのように使われているのか、映画というファンタジーを作り上げる脚本の中で時間や時間の経過にどのような役割があるのかといった映画における「時間」の考察ともなっている。秒刻みの映像編集に加え、効果音やサウンドトラックなど、映画のオリジナル音源を使って行われた音響編集も見事であった。
誰もが知っているハリウッド映画の有名作品から中東、インドを含むアジアのインディペンデント映画まで世界中の映画をほぼ網羅しているため、観客それぞれの出自に関わらず、誰もが個人的記憶を呼び起こされる。そのため、現実の時間にありながら過去の時間へと繋がる、重層的な時間を過ごすことができる。
マークレーは、すでに「Telephone」(1995)および「Video Quartet」(2002)などの作品で、映画を使ったエンタテインメント性の高い作品をこれまでにも発表している。今回の「Clock」はその集大成とも言える作品であり、コラージュの手法や、映画に対する考察と言ったこれまでに追求してきたテーマをより深め、映画の、さらには現実の時間考ともなる作品となった。
この作品は2011年、横浜トリエンナーレ2011に出品予定である。
クリスチャン・マークレーの「Clock」についてのインタビューは 。
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クリスチャン・マークレー インタビュー
クリスチャン・マークレー 『The Clock』
Christian Marclay The Clock (2010) Single channel video, Duration: 24 hours, © the artist, Courtesy White Cube
ART iT を完成させるまでに、リサーチと制作で数年かかっています。制作していた段階で想像していたものと、今、完成してから振り返ってみて考えるものとの間に違いはありますか?
クリスチャン・マークレー (以下 CM) まず作品の制作を始める段階では、いったいこうした作品が制作可能なのかわかりませんでした。一日のすべての分刻みの時間をあらわす映像が十分に見つけられる、そして様々な映画から集めた断片的な場面をつなげてほぼ区切りのない24時間にする方法を見つけることが可能であると感じるまでに丸一年かかりました。
完成できるだろうとわかった時点でかなり安心しましたが、展覧会がスタートしてからも、音やつなぎの部分に見えた小さな問題を修正するのに一週間ほどかかりました。そして最後にようやく、「オーケー、これで完成」と言えるようになりました。永遠にこの作品の制作を続けることもできますが。そして、これからの人生で、私は映画を見るたびに画面の中に時計を見つけて、作品にいれられたらよかったなあと思うのでしょう。
ART iT 最初の一年が経って、どうして作品が出来そうだと確信したのでしょうか。
CM アシスタントたちが映画をみて時計が映っている場面を探し出し、その部分を定期的に持ってきてくれました。私の仕事はそれらを編集する作業で、来る日も来る日もずっと編集だけをしていました。ですから、私自身は飛行機に乗ったときに見る機内映画以外は時間がなくてまったく映画を見ることができませんでした。もし機内の映画で時計が出てくるシーンを見ると、すぐにアシスタントたちにそれを探すようにメールを送りました。
まず時計が必ず映っていそうな映画の調査をしていた期間がありました。例えば少しでも時間に関わっていそうな映画、つまり「時間」とか「時計」などの言葉がタイトルに入っていたり、銀行強盗のように腕時計を合わせる必要のあるような出来事がテーマになっている映画です。それから時間を象徴的に表現している場面や、時間の経過、死、「メメント・モリ」と関連しているイメージ——例えばロウソクが燃えている場面やタバコをすっている場面——を探すようにアシスタントたちに頼みました。最終的にはアイデアがなくなって、アシスタントたちは映画という映画をほとんど見ることになりました。
制作プロセスは非常にシンプルです。「The Clock」は構造が定まった映画です。1時間を埋めるために60分があり、映像の断片が5時6分を示していたら、私はそのイメージをその決められた時間にいれることしかできません。これは科学的な時計ではありませんから、ほんの少し揺らぎがありますが——とは言っても決して1分以上にはなりません——でもたとえばふたつの時計があって秒数が見えている場合、その映像の順番を逆にすることはできません。従って、ある種のロジックが存在します。しかし1分というのはとても長い時間で、いろんなことが起こりうるので、1分のうちの最初のほうでも、最後の方でも、真ん中でも入れることができます。その位置は何が起こっているか、そしてどのように違う物語がうまくひとつにまとまるかということに左右されます。ある出来事が他の出来事の前に起らなくてはならないことは多々あるので、ある意味たくさんの限界があります。
ART iT 一日のすべての時間のために十分な映像を探し出したことは驚異的です。
CM 映画の中の時間では、実際の人生と同じように、まったく何も起こらない時間があります。例えば人々が起きる直前や、昼食の後といった時間です。人々が朝食や昼食、夕食などを毎日同じ時間に行っているように、毎日同じ時間に行っている行為の場面の素材と、そのような何も起こらない場面の素材をもっとたくさん使わざるを得なくなるだろうと思いました。しかし、実際、映画は壮大なファンタジーの世界なので、 途方もない事が常に起こっているのです。人々はランチタイムに昼食を食べないこともあり、銀行強盗をし、爆弾から走って逃げたりします。もちろん日常の平凡な出来事もあり、そして多くの何もしていない場面、人々がただ待っているだけの場面もたくさんあります。
これらの映画をとても注意深く、そしてどのように編集されているかを見ることも余儀なくされました。私が感動したひとつの出来事は同じ俳優が彼らの演じる人生の中のあらゆる時点で何度も画面に戻ってくることでした。とても若いときからとても年をとってからまで何度も——そしてもちろん必ずしも時間の流れに沿った順番で登場しません。普段、映画を見るときは、映画全体で見ているので、たとえ俳優が年をとったことに気がついても、彼が演じる人物の方に焦点を合わせてしまいすぐにそのことを忘れてしまいます。しかし「The Clock」では、1時間の間に同じ人が3回まったく違う年齢で出てくることがあり、それを見るのは非常に奇妙に感じます。こうした異なる時間がこの作品の中に重層的に存在するのです。
ART iT こうした徹底的で気が遠くなる編集とは別に、多くの時間を割いて、使った断片の音のレベルを合わせるといったような音の編集にも尽力していますね。人々は作品をみて、そうした音の効果に気がつくと思いますか。
CM 作品をみてもその部分にはあまり気づかないかもしれません。視覚的にはふたつの違う世界が並置されることによって、映像の編集については簡単に気づくことができると思います。例えば、西部劇から中世の時代劇へ突然切り替わったらすぐに気が付きます。でも必ずしも音については考えませんからね。私は視覚と音、双方の編集に取り組む事で、嘘の継続性を作り出したかったのです。音がもたらす比喩的な説明を映像と同じ空間に持ち込むようにしたかったのです。これは音楽の問題とは限りません。音質の問題であり、残響の問題であります。最近の映画の重低音が響き渡るサラウンド音から、白黒映画の低音も高音もない小さい音量のアナログのサウンドトラックを均一にならすのは非常に難しかったです。「The Clock」において音は非常に重要な部分で、スムーズに流れるようにするために非常に時間がかかりました。
ART iT では、故意に劇的なコラージュを避けていたわけですね。
CM まだシネマスコープから4:3、さらには昔の白黒映画の変わった形式といったすべての形式の断片を使って、全部16:9に変換するという大まかな編集作業をしているころ、訪ねてきた人がいました。その人はなぜ私がすべてを統合させることに気をもんでいるのかと質問したのです。私はただ見ている人はすぐに乱暴で急な場面転換が継続すると飽きてしまうだろうと考えています。
「The Clock」に熱中してしまうのは、終わりがない映画のように見えるものを見ているからです。これが寄せ集められて作られたものだというのはわかるけれども、どこかでひとつの映画なのだと信じている。だからシネマの幻想とコラージュの明白さとリアルタイムにおける現実という複数の現実の間で押したり引いたりされるのです。さらにそれに加えて、見ている人は自分自身の経験を持ち込み、また違うレベルの流動性が生じます。なぜなら、彼らは今何時であるかとか、作品を見る時間があるかないか、もしくはどれくらいそこにいたかということをわかっているからです。つまり彼ら自身の時間も作品の一部を成すことになるのです。
普段、映画が行っていることは、すべてが圧縮されていて、だれかの人生が2時間で過ぎてしまうようなある別のもしくは抽象的な時間へ観客を連れて行くことです。観客はそれが幻想であることを知っていたとしても受け入れる訳です。それに対し、「The Clock」ではすべてのことは圧縮されていない、現実と同じ時間軸で起きています。つまり、この作品は幻想でありながら現実にも入り込むのです。
ART iT 現在ソウルのサムスン美術館 Leeumで行われている展覧会では「The Clock」は開館時間中のみの上映で、24時間すべてを見ることはできません。それは作品の本質を変えてしまうのでしょうか。
CM そうですね、でもどんな場合でも24時間すべてを見る人はほとんどいないでしょう。これは環境的なことなのです。腕時計を一日中見る人はいないでしょう、時間を見る必要があるときにだけ見ますよね。
これは自分にとってそうであるように、鑑賞者にとってもがっかりすることかもしれません。私は人々が見たいときにいつでも見ることが出来るようにしたいと思っています。しかし、それはたとえば美術館といった施設では、24時間ずっと開館しておくことはコストの面から非常に難しいです。私はこの作品はパブリックな作品として、空港や駅など人々が待ち時間を過ごす場所で見せられたらいいとずっと思っていました。でもそこではアナウンスを聞いたりしなくてはいけないし、音がかなり大きいこともあり、多くの規制がありました。またこの作品を外に展示する場合は、音が聞こえなくなってしまうか、隣人を怒らせることになるでしょう。
将来的に人々はもっと創造的になって、24時間この作品をいつでも見ることが出来る面白いスペースを見つけ出すことができるでしょう。
ART iT もう一度作品の改訂版を作ることはこの先ありますか。
CM 大きな問題に気づかない限り、もう一度この作品の制作に戻りたいとは考えていません。制作プロセスは全く消耗するものであり、ごく細部にまで集中していましたから、ようやく全体像が見えるようになったとき、捉え方が大きく変わりました。結果には満足しているので、他に何かすることがあるとは思いません。この28ヶ月の間にほぼ編集されていますから、作品の中の映像はその期間中に私が実際に見たものであり、そこから直接出来上がったものです。これは、21世紀初めのある期間と場所の記録なのです。
クリスチャン・マークレー 「Clock」は、2010 年10月15日–11月13日ホワイト・キューブ、ロンドンで上映された。同作品は2011年8月6日から11月6日まで開催される『横浜トリエンナーレ2011』に出品される予定。
Christian Marclay The Clock (2010) Single channel video, Duration: 24 hours, © the artist, Courtesy White Cube
ART iT を完成させるまでに、リサーチと制作で数年かかっています。制作していた段階で想像していたものと、今、完成してから振り返ってみて考えるものとの間に違いはありますか?
クリスチャン・マークレー (以下 CM) まず作品の制作を始める段階では、いったいこうした作品が制作可能なのかわかりませんでした。一日のすべての分刻みの時間をあらわす映像が十分に見つけられる、そして様々な映画から集めた断片的な場面をつなげてほぼ区切りのない24時間にする方法を見つけることが可能であると感じるまでに丸一年かかりました。
完成できるだろうとわかった時点でかなり安心しましたが、展覧会がスタートしてからも、音やつなぎの部分に見えた小さな問題を修正するのに一週間ほどかかりました。そして最後にようやく、「オーケー、これで完成」と言えるようになりました。永遠にこの作品の制作を続けることもできますが。そして、これからの人生で、私は映画を見るたびに画面の中に時計を見つけて、作品にいれられたらよかったなあと思うのでしょう。
ART iT 最初の一年が経って、どうして作品が出来そうだと確信したのでしょうか。
CM アシスタントたちが映画をみて時計が映っている場面を探し出し、その部分を定期的に持ってきてくれました。私の仕事はそれらを編集する作業で、来る日も来る日もずっと編集だけをしていました。ですから、私自身は飛行機に乗ったときに見る機内映画以外は時間がなくてまったく映画を見ることができませんでした。もし機内の映画で時計が出てくるシーンを見ると、すぐにアシスタントたちにそれを探すようにメールを送りました。
まず時計が必ず映っていそうな映画の調査をしていた期間がありました。例えば少しでも時間に関わっていそうな映画、つまり「時間」とか「時計」などの言葉がタイトルに入っていたり、銀行強盗のように腕時計を合わせる必要のあるような出来事がテーマになっている映画です。それから時間を象徴的に表現している場面や、時間の経過、死、「メメント・モリ」と関連しているイメージ——例えばロウソクが燃えている場面やタバコをすっている場面——を探すようにアシスタントたちに頼みました。最終的にはアイデアがなくなって、アシスタントたちは映画という映画をほとんど見ることになりました。
制作プロセスは非常にシンプルです。「The Clock」は構造が定まった映画です。1時間を埋めるために60分があり、映像の断片が5時6分を示していたら、私はそのイメージをその決められた時間にいれることしかできません。これは科学的な時計ではありませんから、ほんの少し揺らぎがありますが——とは言っても決して1分以上にはなりません——でもたとえばふたつの時計があって秒数が見えている場合、その映像の順番を逆にすることはできません。従って、ある種のロジックが存在します。しかし1分というのはとても長い時間で、いろんなことが起こりうるので、1分のうちの最初のほうでも、最後の方でも、真ん中でも入れることができます。その位置は何が起こっているか、そしてどのように違う物語がうまくひとつにまとまるかということに左右されます。ある出来事が他の出来事の前に起らなくてはならないことは多々あるので、ある意味たくさんの限界があります。
ART iT 一日のすべての時間のために十分な映像を探し出したことは驚異的です。
CM 映画の中の時間では、実際の人生と同じように、まったく何も起こらない時間があります。例えば人々が起きる直前や、昼食の後といった時間です。人々が朝食や昼食、夕食などを毎日同じ時間に行っているように、毎日同じ時間に行っている行為の場面の素材と、そのような何も起こらない場面の素材をもっとたくさん使わざるを得なくなるだろうと思いました。しかし、実際、映画は壮大なファンタジーの世界なので、 途方もない事が常に起こっているのです。人々はランチタイムに昼食を食べないこともあり、銀行強盗をし、爆弾から走って逃げたりします。もちろん日常の平凡な出来事もあり、そして多くの何もしていない場面、人々がただ待っているだけの場面もたくさんあります。
これらの映画をとても注意深く、そしてどのように編集されているかを見ることも余儀なくされました。私が感動したひとつの出来事は同じ俳優が彼らの演じる人生の中のあらゆる時点で何度も画面に戻ってくることでした。とても若いときからとても年をとってからまで何度も——そしてもちろん必ずしも時間の流れに沿った順番で登場しません。普段、映画を見るときは、映画全体で見ているので、たとえ俳優が年をとったことに気がついても、彼が演じる人物の方に焦点を合わせてしまいすぐにそのことを忘れてしまいます。しかし「The Clock」では、1時間の間に同じ人が3回まったく違う年齢で出てくることがあり、それを見るのは非常に奇妙に感じます。こうした異なる時間がこの作品の中に重層的に存在するのです。
ART iT こうした徹底的で気が遠くなる編集とは別に、多くの時間を割いて、使った断片の音のレベルを合わせるといったような音の編集にも尽力していますね。人々は作品をみて、そうした音の効果に気がつくと思いますか。
CM 作品をみてもその部分にはあまり気づかないかもしれません。視覚的にはふたつの違う世界が並置されることによって、映像の編集については簡単に気づくことができると思います。例えば、西部劇から中世の時代劇へ突然切り替わったらすぐに気が付きます。でも必ずしも音については考えませんからね。私は視覚と音、双方の編集に取り組む事で、嘘の継続性を作り出したかったのです。音がもたらす比喩的な説明を映像と同じ空間に持ち込むようにしたかったのです。これは音楽の問題とは限りません。音質の問題であり、残響の問題であります。最近の映画の重低音が響き渡るサラウンド音から、白黒映画の低音も高音もない小さい音量のアナログのサウンドトラックを均一にならすのは非常に難しかったです。「The Clock」において音は非常に重要な部分で、スムーズに流れるようにするために非常に時間がかかりました。
ART iT では、故意に劇的なコラージュを避けていたわけですね。
CM まだシネマスコープから4:3、さらには昔の白黒映画の変わった形式といったすべての形式の断片を使って、全部16:9に変換するという大まかな編集作業をしているころ、訪ねてきた人がいました。その人はなぜ私がすべてを統合させることに気をもんでいるのかと質問したのです。私はただ見ている人はすぐに乱暴で急な場面転換が継続すると飽きてしまうだろうと考えています。
「The Clock」に熱中してしまうのは、終わりがない映画のように見えるものを見ているからです。これが寄せ集められて作られたものだというのはわかるけれども、どこかでひとつの映画なのだと信じている。だからシネマの幻想とコラージュの明白さとリアルタイムにおける現実という複数の現実の間で押したり引いたりされるのです。さらにそれに加えて、見ている人は自分自身の経験を持ち込み、また違うレベルの流動性が生じます。なぜなら、彼らは今何時であるかとか、作品を見る時間があるかないか、もしくはどれくらいそこにいたかということをわかっているからです。つまり彼ら自身の時間も作品の一部を成すことになるのです。
普段、映画が行っていることは、すべてが圧縮されていて、だれかの人生が2時間で過ぎてしまうようなある別のもしくは抽象的な時間へ観客を連れて行くことです。観客はそれが幻想であることを知っていたとしても受け入れる訳です。それに対し、「The Clock」ではすべてのことは圧縮されていない、現実と同じ時間軸で起きています。つまり、この作品は幻想でありながら現実にも入り込むのです。
ART iT 現在ソウルのサムスン美術館 Leeumで行われている展覧会では「The Clock」は開館時間中のみの上映で、24時間すべてを見ることはできません。それは作品の本質を変えてしまうのでしょうか。
CM そうですね、でもどんな場合でも24時間すべてを見る人はほとんどいないでしょう。これは環境的なことなのです。腕時計を一日中見る人はいないでしょう、時間を見る必要があるときにだけ見ますよね。
これは自分にとってそうであるように、鑑賞者にとってもがっかりすることかもしれません。私は人々が見たいときにいつでも見ることが出来るようにしたいと思っています。しかし、それはたとえば美術館といった施設では、24時間ずっと開館しておくことはコストの面から非常に難しいです。私はこの作品はパブリックな作品として、空港や駅など人々が待ち時間を過ごす場所で見せられたらいいとずっと思っていました。でもそこではアナウンスを聞いたりしなくてはいけないし、音がかなり大きいこともあり、多くの規制がありました。またこの作品を外に展示する場合は、音が聞こえなくなってしまうか、隣人を怒らせることになるでしょう。
将来的に人々はもっと創造的になって、24時間この作品をいつでも見ることが出来る面白いスペースを見つけ出すことができるでしょう。
ART iT もう一度作品の改訂版を作ることはこの先ありますか。
CM 大きな問題に気づかない限り、もう一度この作品の制作に戻りたいとは考えていません。制作プロセスは全く消耗するものであり、ごく細部にまで集中していましたから、ようやく全体像が見えるようになったとき、捉え方が大きく変わりました。結果には満足しているので、他に何かすることがあるとは思いません。この28ヶ月の間にほぼ編集されていますから、作品の中の映像はその期間中に私が実際に見たものであり、そこから直接出来上がったものです。これは、21世紀初めのある期間と場所の記録なのです。
クリスチャン・マークレー 「Clock」は、2010 年10月15日–11月13日ホワイト・キューブ、ロンドンで上映された。同作品は2011年8月6日から11月6日まで開催される『横浜トリエンナーレ2011』に出品される予定。
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