2013年3月31日日曜日

映画館で『マスター』


見終わった後、なぜだか物凄く感動していた。
思い出そうとすればするほど、何の話だったかはよく分からないけど。

新興宗教の教祖的な存在(フレディ)と、そこに引っかかりつつ離れていった男(サットン)との関係性―影響関係とか保護と被保護とか支配と被支配とか―をめぐる話なのだけど、まあざっくり言って、これは、俳優(フィリップ・シーモア・ホフマンとかホアキン・フェニックス)の顔の皺を見る映画だった。
ホアキン・フェニックスの顔がどんどん歪んでいくのがとても良かった。
話の内容は分からなかったけど。

あと、これは、俳優の背後に広がる地平線とか青空を見る映画だったのかもしれない。
覚えているシーンが2つある。まず、フレディがサットンを連れて、砂漠に隠しておいた「二冊目の著作」を掘り出しに行くシーン。このシーンで、フレディとサットンは、「二冊目の著作」を掘り出した後に帰る時、同じ歩調で歩いている。右足と左足のリズムが同じ。
対してもうひとつのシーン、フレディが娘夫婦とサットンを連れて「バイクに乗って目的地まで全速力で走っていくゲーム」をするシーンでは、バイクで走り去ってしまったサットンを追いかけて歩くフレディと娘の歩調は違う
このふたつはフレディとサットンの関係性の深さとか類似性とかを感じさせるシーンで、なんか、そういう映画的表現があふれている映画だったなあ。
なので、話の内容は分からなかったけど、感動した。


ザ・マスター - Wikipedia:

初めて、ポール・トーマス・アンダーソンの映画を映画館で見た。
これは、映画館で見てよかった。
家で見たら、何が面白いのかさっぱり分からなかったのではないだろうか。

その後、ダウンビートに行くとtakatsukaがいた。

月曜日と木曜日なら横国の学生がバイトしてないらしい。
こっちのマスターは(も)、よく喋る人っぽかった。

一度、入って左側の部屋に行って、ずっと黙って難しい顔してジャズ聴いて、「ジャズ喫茶」を楽しむことにしよう。

2013年3月30日土曜日

録画してあった『家族』(1970)

切なかった。
1970年前後の日本の風俗とか、物の値段とか、電車旅行の長さとか。


ロード・ムーヴィ―なので、『リトル・ミス・サンシャイン』のことを思い出した。
ドキュメンタリー「的」手法で撮影していた。ネオレアリスモとかに影響を受けているらしい。


民子三部作というのは、『家族』(1970)、『故郷』(1972)、『遙かなる山の呼び声』(1980)の3つ。でもこれらは内容的に連続しているわけではなくて、倍賞千恵子が「民子」という名前で登場するから。
内容的には、井川比佐志が夫役の『家族』(1970)と『故郷』(1972)、高倉健が夫役の『幸福の黄色いハンカチ』(1977)と『遙かなる山の呼び声』(1980)がセットと考えられるらしい。

家族 (映画) - Wikipedia:
故郷 (映画) - Wikipedia:これ、2011年3月31日に見た。

家族 [DVD]
山田洋次
B0007WACZY

リトル・ミス・サンシャイン [DVD]
B008CDB3HQ
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03月
29

2013年03月29日(金) 4ポスト

 録画してあった『家族』を見ている。「民子三部作」という言葉を初めて知ったのだが、この三部作の『故郷』を見たことがある。とても切ない映画だ。僕は親が年取ってからの子供なので、これは、僕の親世代の青春なのだろう。/家族 (映画) - Wikipedia

(2013年03月29日 22:03:54) [削除]
コメント(1人):
 そうか、この『家族』も大阪万博も『僕は散歩と雑学が好き』も、全部同じ1970年か。
(2013年03月29日 23:03:17) [削除]
コメント(0人):
03月
30

2013年03月30日(土) 1ポスト

 親の世代の青春だったのだなあ。
そう思うと、植草甚一に対する見方も変わりそうな気がしてきた。

(2013年03月30日 00:03:00) [削除]

2013年3月29日金曜日

植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』(1970)

初めて読んだが、魅力がよく分からない。
喋るように書くスタイルやサブカルチャーにハマる生き方を創始したひととしてスゴイのだろうと思う。この文体がなければ、町山智浩やその他大勢のコラムニストやエッセイストは出て来なかったのかもしれない。
実物はオシャレなんだろうなあと思う。話好きなおじさんなのだとしたら、スゴイ面白いか、ちょっと鬱陶しいか、どっちかだろうと思う。
でも、こういうのは「スノッブ」というのではないのか? 違うか?
植草甚一が活動していた時期にはまだ「サブカルチャー」に対立するメインカルチャーとかハイカルチャーがカッコと存在していたので、当時の植草甚一は「ハイカルチャーに近いことを自慢する類のスノッブ」ではなかった、ということか?
あるいは、このオシャレなおじさんの良さが分からないなんて、僕のセンスが鈍いのか?
よう分からん。
誰か教えてくれんかなあ。

この本について言うと、ただアメリカの雑誌を読むだけでよくまあ、これだけ色々知ったように書けるものなんだなあ、と思った。
1970年のアメリカは今とは比べ物にならないほど遠い土地だったようだ。当時の「世界」はでかかったのだろう。

植草甚一 - Wikipedia:
ほぼ日刊イトイ新聞 -「はじめてのJAZZ。」特別番外篇:
81夜『ぼくは散歩と雑学がすき』植草甚一|松岡正剛の千夜千冊:”エッセイは、どんなときも、まるで喋るように書いてある。いま書こうとしているテーマや出来事を書く気になったきっかけが一緒に書いてあるために、誰もが入りやすく、読みやすい。そして捨てやすい。おそらく、今日のどんな雑誌のコラムにもつかわれている「フツーの文体」「ジョーゼツ文体」の基本スタイルは、きっと植草甚一がつくったのではないか、元祖なのではないかとおもわれる。

ぼくは散歩と雑学がすき (ちくま文庫)
植草 甚一
4480430431

2013年3月28日木曜日

DVDで『Pat Metheny: The Orchestrion Project』


買って自宅に持って帰ってきて、すっかり忘れていたこれを見ている。
なんつうか、このオマヌケ感orポンコツ感を見てると「パット・メセニーの音楽」は耳に入ってこない。
笑けてくるのだが、パット・メセニーは笑って欲しいのだろうか?

パット・メセニーとの対談 for『オーケストリオン』 - 中川ヨウ | Yo Nakagawa Official Website -:

The Orchestrion Project
Pat Metheny
B008HFWF3U


もう、必然性がひとつもわからない。

2013年3月26日火曜日

論文を書きました。

大正期日本における蓄音機の受容状況について『音楽と蓄音機』という雑誌を調べて書いた論文が、科研報告書論文集として刊行された本に収録されました。

「大正期日本における蓄音機の教育的利用の事例 ーー雑誌『音樂と蓄音機』と日本教育蓄音機協會の場合ーー 」

京都にいた頃にお世話になっていた大型科研の報告書で、この科研や師匠に多少なりとも恩を返せたかもしれないと思うと、感慨深いです。
また、今は「大正期日本における音響技術の受容状況の調査」から離れていることを思うと、反省することしきりです。
ついでに言うと、これは、3,4年前に書いた時はあてにしていたところに発表できず行き場所をなくしていたけれど、2年前にJournal of Universal Rejectionというところに投稿したところ数秒でrejectされたものです。これもまた感慨深い。

https://twitter.com/nakagawa09/status/33080791839805440

◯書誌情報
中川克志 2013 「大正期日本における蓄音機の教育的利用の事例 ーー雑誌『音樂と蓄音機』と日本教育蓄音機協會の場合ーー 」 山野英嗣(編) 『東西文化の磁場 日本近代の建築・デザイン・工芸における境界的作用史の研究』 東京:国書刊行会:283-308。

この本です。
高いので、お使いになられる方は、図書館で探して読んでください。
僕の論文はともかく、他の執筆者たちの論文はしっかりした学術論文です。

東西文化の磁場: 日本近代の建築・デザイン・工芸における境界的作用史の研究
山野 英嗣
4336056366
ーーーーーーーーーーー
この論文を書く前に、西島千尋さんの博士論文を読ませていただいて勉強しました。
ありがとうございました。
その博士論文は、その後、単行本になったこれです。
クラシック音楽は、なぜ“鑑賞”されるのか―近代日本と西洋芸術の受容
西島 千尋
4788512122

文章を書きました

書店に並んだのはもう結構前だけど、『アルテス』のケージ特集号に「ケージとポロック――絵画の音楽化? 音楽の絵画化?」という文章を書きました。

「ケージとポロックを比較するのは難しい、今後も精進していこう」という感じの内容の小文を書かせてもらいました。ケージとポロックを比較してみたら何か出てくるだろうと思ったけど、何だか上手くいかなかったのでこうなりました。
今後も精進していきます。
そもそもは2012年10月に日本アメリカ文学会のシンポジウムで話した内容をきかっけに書いたものです。誘ってもらってありがとうさんでした。

もう「ケージをめぐるミスティックな言葉からはできるだけ距離をとろう!」とか気負わなくても良いのだなあ、と思いました。
何となく。

→この号の『アルテス』の紹介

JCといえば女子中学生じゃなくてジョン・ケージのことを思い浮かべてください。初音ミクの死からサウンドスタディーズまで『アルテス Vol.04』:Book News
:このひと、色々なジャンルのことをいつも長めのレポートで書いてて、ようやるなあ。えらいもんだなあ。



◯書誌情報
中川克志 2013 「ケージとポロック――絵画の音楽化? 音楽の絵画化?」 『アルテス 特集101年目からのジョン・ケージ』4:117-122。

アルテス Vol.04
渋谷慶一郎 佐々木敦 相倉久人 有馬純寿 川崎弘二 杉本 拓 白石美雪 細川周平 柿沼敏江 椎名亮輔 波多野睦美 輪島裕介 山崎春美 石田昌隆 三輪眞弘 小野幸恵 大石始 濱田芳通 おおしまゆたか 明和電機
4903951634

メモ:ニコル・ブルネーズ『映画の前衛とは何か』(現代思潮新社、2012年)

不思議な内容だった。



徹底的にフランス的なものとしての「アヴァンギャルド」について語っていた。WWII以降の現代美術や実験映画への記述がほとんど無し。グリーンバーグへの言及も、たぶん、解題論文の中で段落半分(292)だけ。ブラッケージとかジョナス・メカスとかマヤ・デレンへの言及もほとんど無し(たぶん、ない)。
「社会闘争」とか「階級闘争」とか「ブルジョワジーへの反抗」とかそういうフレーズがいっぱいあったし、「つとにパリを思想と芸術の最新流行のメッカと信じてやまない日本人」(佐古2012:280)とかいうフレーズも出てきたし、この本も解題論文も、50年前に書かれたってんなら分かるけど、どっちも21世紀以降に書かれたものなのだ。

だから不思議だった。

なぜ僕はこの手の文章を読めないのだろう。ボードレールとマラルメを知らずに芸術について語ってはいけないのかもしれない。


著者は20年近くパリ第一大学などで映画学を講じてきた映画研究者だが。これが、著者の出版物の中でも理論的な内容の本だったからかもしれない(他に具体的な作家を取り上げたものも出しているようだ)。

解題論文を書いた佐古節子さんって何者なんだろう? 素人の文章ではないけど、学者とか研究者ではなさそうな。

ニコル・ブルネーズ(Nicole Brenez) 2012(2006) 『映画の前衛とは何か』 須藤健太郎(訳) 東京:現代思潮新社。
佐古節子 2012 「解題 アヴァンギャルドとは何か、何だったのか」 ニコル2012:255-352。

映画の前衛とは何か
ニコル・ブルネーズ 須藤 健太郎
4329004844

2013年3月23日土曜日

六本木アートナイト

に来た。
今、東京ミッドタウンにいる。
ひと、いっぱい。



この後、大友良英フライングオーケストラとINO Hidefumiを見て帰った。
遠藤一郎のやってることは好きじゃないけど、フライングオーケストラは、音楽体験として面白かった。
音楽を、所有する対象から一回限りの体験する対象に変える行為。そこで重要なのは、音と音との関係性ではなく、空間内で音を体験すること、なのだろう。
録音文化のまっただなかで、音楽体験にアウラを取り戻すこと。
とはいえ、そこで奏でられる音楽は、和音やメロディに彩られた分かりやすい音楽ではなく、ドローンの快楽とでも言うべき何かなので、そこで取り戻されるアウラは、19世紀的な儀式性とは無関係のものであることもまた確かだろう。




03月
23

2013年03月23日(土) 8ポスト

 六本木アートナイト、最後にINO Hidefumiを見て帰る。
フライングオーケストラとは音楽の在り方が真逆なところもあるが、僕は、とても好きなミュージシャンのライブ(バンドだった)を見ることができて、良かった。
(2013年03月23日 23:03:46) [削除]
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 桜が満開!
Mobile Uploads
(2013年03月23日 20:03:47) [削除]
コメント(0人):
 大友良英フライングオーケストラ
カチカチカチカチ、ぷわぅあーぁん
(2013年03月23日 20:03:38) [削除]
コメント(0人):
(2013年03月23日 20:03:21) [削除]

至らない教員だったけど花を貰った。
うれしい。



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2013年3月22日金曜日

メモ:横浜国立大学都市イノベーション学府(IUI)修了展 -IUI編集会議-
の感想

勤務先の横浜国立大学大学院都市イノベーション学府・研究院(IUI)がこの春、最初の修了生を出す。なので、3月19日から21日までYCC(ヨコハマ創造都市センター)で修了展を行なっていた。 →横浜国立大学 都市イノベーション学府(IUI)修了展 IUI編集会議

写真撮影のために昨日今日と2回行って、今日は修了展最後の会議のようなものにも参加して多少発言したし、色々思うことはあるのでまとめておこうかと思ってブログを開いたのだが、この六行ほどを書く間に、そんなに気張ってまとめるほどのことではないような気がしてきたので、まとめずメモしておくに留める。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・何よりもまず、このようなイベントをゼロから考えて企画した実行委員の学生と教員、お疲れ様でした。
・修了生たちには、大学出て良い人生を送ってください、と言っておきたい(が、明日また会うみたい)。

・ヘタすると、「学生からの自主的な発案」を出させる会みたいなお仕着せの何かのまま進行していきそうになりそうだったのを止めることができて、良かった。

・「文理融合」な事態を多少なりとも面白いと思っている学生がけっこういることを、初めて知った。でも、「都市イノベーション」に何の帰属意識のない学生がかなり多いことも事実。僕もあまりない。
・司会の学生の声がいい声だった。会が終わってから「土木の諸問題を解決するのにとても役立つよ」といって「広沢虎造」を薦めたが、その場にいた他の人によると、彼は真面目なのでどうやら本気にしたらしい。申し訳ないことをしたが、これをきっかけに浪花節に親しんで貰いたい。あと、自分の話が長すぎるので、司会としては失格だと思う。

・都市計画というディシプリンのなかに教育学みたいな研究があることを知ったのは、面白かった。
・教授会で見たことのない教員が結構いた。「幽霊部員」みたいなものか。僕も幽霊をやりたい。
・「文理融合」に関する僕の意見は、あそこで述べた通り。「本当の文理融合」とは、「文系的な知と理系的な知が相互に乗り入れて何か新しいドライブ感が生み出される状態」なんかではなくて(そういうものはあり得ないと思う)、「文系的な知のあり方」と「理系的な知のあり方」というものがありそれらは異なったものであることを知ること、だと思う。「あり方の違う知があること」を知ること、だと思う。ふたつの知の違いは、「互いの専門用語を知らない」とかその程度の違いではないが、理解するのがそんなに難しいものでもないと思う。で、たぶん、学生ではなくわれわれ教員が先にそのことを学ばねばならないと思う。


・まとめ1:学生は、使えそうな教員は使えばいいと思う。
・まとめ2:教員は、互いのことをもっと知ったうえで、自分の仕事を一生懸命すればいいと思う。
・まとめ3:で、「所属大学院のあるべき未来像」とかそんなことは、年度末に慌てて考えるようなことではないと思う。


たぶん。

2013年3月19日火曜日

DVDで『アメリカン・ビューティー』(1999)

人を追悼する気持ちに区切りをつけようと思って、見た。
3,4回目だが、見るたびに、自分がどこに/誰に/どういう設定に感動しているのか上手く整理できなくなる、良い映画。american beautyはアメリカ中流家庭の象徴だったり官能の象徴だったりするわけだけど、やっぱり、一番記憶に残るのは、ビニール袋が中を舞うあの映像なのである。
またそのうち見直すのだろう。



これ以降もサム・メンデス作品はけっこう見ているけど、いつまでもこれがベストだなあ。
しかしまあ、この男の子はミウラに似てるなあ。

アメリカン・ビューティー [DVD]
ブルース・コーエン
B0088LBXQS

2013年3月18日月曜日

録画してあった『おとうと』

吉永小百合が話す言葉はすべて正しい!ということが分かる映画だった。

そんなに簡単に結婚させたり、借金の肩代わりしたり、離婚させたりしてはいけないだろうとか、話の進み方に無理のあるところがいくつも見受けられる物語だったけど、吉永小百合がそうだと言えばそれが正しくなるという仕組みになっているようだ。
日本映画ってやつは。

何だか涙ぐんだけど、それが感動したからか季節のせいかは難しいところだった。
いや、けっこう面白かったのだけど。

蒼井優の演技の素晴らしさが発揮されているまともな映画を、初めて見た気もする。
チョイ役が豪華だった。一瞬だけ出る人たちが。

ところで最後に。
あんな風にイヤな奴は、医者には(というか、どこにも)あまりいないと思う。

おとうと 通常版 [DVD]
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2013年3月17日日曜日

Youtubeで『略称 連続射殺魔』(1969)

1968年に永山則夫が起こした連続殺人事件に触発されて作られた映画。
YouTubeにあった。

永山則夫が生まれ育った北海道の映像から、順に、集団就職で上京した東京の映像、東京や横浜で職を転々として引っ越した土地の映像、などで構成された、ドキュメンタリーみたいな映像。
「永山則夫が見たかもしれない映像」なわけだけど、現場の音はないし(代わりにフリージャズの音がつけられている)、ナレーションは永山がどこに移動したかしか説明しないし(何を感じて何を考えただろう、といったことは語られず)、まあ「目を離せない映画」とかではない。

これで何が明らかになったり、何がもたらされたりしたのだろう?
これで「連続射殺魔になる人間のこととか、そういうのを生み出す社会のこと」が何か分かるようになるとはとても思えない。
けど「あゔぁんぎゃるどなことをすることで、何かをなしとげようとする試み」があったこと、が面白い。
この映画は何かというのはすぐにはよく分からないのだが、「すぐにはよく分からないもの」を試みることができて、とりあえず今まで生き延びているってのは良いことだ。

この音楽、他に何とかならかったのか?とは思うが。
1969年の日本の風物を見れる映像が、とても面白かった。



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当時の黄金町が出てきた。
この頃どうだったかは知らないが、ドヤ街っぽかった。
住みたくはない町だ。




2013年3月10日日曜日

DVDで『エリ・エリ・レマ・サバクタニ 』(2006)

よく言えば良くできた学生映画、でも映画と音楽の両方に不誠実だと思う。
映像(構図とかカット割り)は良くできてるのだろうけど、テーマとか物語がかったる過ぎる。なんだ、この話、世界には中学二年生しかいないとでも思ってるのか? あらすじを読まないと物語の筋が分からないし。
あと、ノイズ・ミュージック(あるいは「音楽」)をバカにしてるようにしか見えない。

物語がまったく進まないまま、主人公らしき二人は「いろいろな音」を集めたり「ノイズ・ミュージック」を演奏したりしてるのだけど、その描写―洗濯物干しと洗濯ばさみでカラカラ音を出したり扇風機にホースを散りつけて回して音を出したり、ライブハウスみたいな所で演奏していたり―を見ながら、ついつい僕は「ださっ」と言ってしまったのであった。
(誰に対してかはともかく)大変申し訳無い。

なので、まだ寝るには早いし、30分ほど見たところで感想を書き始めた。
この映画のことは去年か一昨年の学生のレポートで知ったのだけど、浅野忠信とか宮崎あおいとか中原昌也とか筒井康隆とか話題にならないはずがない配役なのに今まで僕のアンテナに引っかかってこなかったワケが分かった。

「何かを難しげに見せることでそれが高尚なものであるかのように思わせようとする様子」を「衒学的」というと思うけど(だよね?)、それをアートに対して行うと、それは「すのっぶ」と言うだろう、たぶん(という感じの美的考察―あるいは美学的考察―を展開してみようかとも思ったが面倒なのでやめておく)。

ともあれ、この映画を「現代アート」とか「ゲンダイオンガク」とか「ノイズ・ミュージック」とかいうジャンル名で理解しようというのは、「現代アート」とか「ゲンダイオンガク」とか「ノイズ・ミュージック」に対して失礼だと思う。


今のところ(洗濯物片づけたりしていたら70分たった)心に引っかかった場面は、どこかのバーのBGMでギャヴィン・ブライアーズの《Jesus' Blood Never Failed Me Yet》(1971)がかかっていた場面。
はっ!とした。
どんなに眠たい映画でもブライアーズが一節流れるだけで、画面には緊張感や期待感が生まれる。そこには何かあって今にも何かが生まれるんじゃないか、という気にさせてくれる。
つまり、この映画は、ブライアーズの素晴らしさを再認識させてくれるという点でオススメです!

イエスの血は決して私を見捨てたことはない
リースマン(マイケル) ギャビン・ブライアーズ マイケル・リーズマン・コーラス
B00005FEV6



そうこうしているうちに、最後のクライマックスの場面、「浅野忠信が北海道の草原の中で、自殺ウィルスに感染した宮崎あおいの生命を何とかするために、エレキギターでノイズ・ミュージックを演奏する」場面がやってきた。
この圧倒的なダサさはなんだろう?
「コードとかリズムとかじゃないギターを演奏したらそれだけで自由になれるとかいうふざけたお話」をそのまま映像化しているようにしか見えないのだが、もしほんとにそんなことしてるのだとすれば、そりゃあ世界中のみんなが中学二年生なら許されるかもしれないけど、世界人口はそんなに偏っているわけではないから許されるわけはないし、ノイズ・ミュージックってのは陳腐さと葛藤する様子こそが面白いと僕は思うのだが、それはまあともかく、僕にはなぜこういうことになっているのか理解できない。
僕はこの映像の奥深くに込められているもっと深遠なメッセージを見逃しているのだろうか? 誰か教えてくれないか?

追記:
僕は、宮崎あおいが出ている他の映画は『ソラニン』を見たことがあると思う(他にも見たかもしれないけど覚えていない)。
だから僕は宮崎あおいのことを「アレな感じの音楽映画に出ている人」として記憶することになりそうだ(『おおかみこどもの雨と雪』の声優としてではなく。)。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ - Wikipedia

エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版 [DVD]
青山真治
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ソラニン スタンダード・エディション [DVD]
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おおかみこどもの雨と雪(本編1枚+特典ディスクDVD1枚)
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ミュージックコンクレート 電子音楽 オーディション 再現コンサート@神奈川県立近代美術館鎌倉別館

1.
ひと多過ぎ。
200人はいたらしい。「戦後日本のアヴァンギャルドの現代音楽」でこんなに集まるとは。
「みんな」、何考えてんだ?

ただ、おかげでイスに座れず床に座るはめに。
今の腰の状態で床に長時間座るのはキツイので、途中で僕の集中力は飛んでいったのだった。

2.
お目当てのひとつは、日本最初のテープ音楽として発見された芥川也寸志≪マイクロフォンのための音楽≫(1952)。
冒頭部分で、録音された汽車の音が使われていた以外はただの管弦楽曲に聞こえた。他に特徴的なところはあったのか? よく分からんが、ちゃんと聴いた、と言える自信もあまりない。

「マイクロフォンのための」というのがポイントらしい。
何がポイントかイマイチわかりにくいが、まあたぶん、その後の「日本の電子音楽」との時代認識の違いみたいなものがうかがえる、ということではないか、と思う。
たぶん。
「テープ」ではなく「マイク」のためだ、ってのは、確かに面白い話だが、他の国でこういうことはあったろうか? 聞いたことないが。

3.
これは「再現コンサート」(最近、「何かの再現とか再演」をよく見てる気がする)なので、聴衆が注目すべき対象はスピーカーしかない。
京都のアレもそうだったけど、こういう「テープ音楽の夕べ」的な催し事はかなり集中力が必要。集中しないと、ただ退屈。
で、終わった後の拍手がなんか虚しい。「我々は何に対して拍手をしているのか?」という反省に強く迫られる。
「昔のアヴァンギャルド」の「再現コンサート」だと思うと、なかなか楽しいかもしれん。どうせなら、前で説明する川崎さんの服装とか、そういう他のところも「再現」っぽくしてみたらどうだろうか。






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2013年3月9日土曜日

映画館で『ジャンゴ』

長かったー。
最初、展開がかったるいなあ、と思っていたのだけど、どうやら、白人はだいたい死ぬことになってるらしいと気づいた頃から、面白くなってきた。
黒人の友人はいないので、スカッと感じることもなかったが、映画館で見るには良い娯楽でした。

2013年3月5日火曜日

メモ:ゾンビ音楽について(「両国門天ホールオープニングイベント週間:足立智美プロデュース:もうひとつの月曜日」より)

昨日、両国門天ホールというところのオープニングイベントに行ってきた。
実験音楽のためのシアターとアンサンブル目当てだったのだが、他の出演者の傾向がバラバラに見えたのが、なんだか面白かった。
「ライブハウス」じゃなくても、ああいう、変なことやるひとたちが集まる場所があるんだなあ、と思った。
ーーーーーーーーー
[両国門天ホールオープニングイベント週間] もうひとつの月曜日:

3/4(月) 足立智美プロデュース もうひとつの月曜日
出演: 井上郷子、坂田明、竹田賢一、安野太郎、実験音楽とシアターのためのアンサンブルーーーーーーーーー
◯メモ:ゾンビ音楽について



1.
このゾンビ音楽は、まず、発電機のようなものにエンジンをかけて「空気をためる」らしい(発電機ではないのか? なんだ、これ?)。
次に、Macで制御しつつ、リコーダーに空気を送り込み、機械式の指を動かす。
空気を送り込む際、少し漏れているのかもしれない、リコーダーのピッチはけっこう不安定。また、指がリコーダーにあたる音がパーカッシヴ。つまり、決して、メカニズムを駆使した超絶技巧が披露されるわけではない(逆に、あのくらいの音なら、人力の方が「上手く」演奏できるのではないか)。


2.
MCで本人が語るところによると、ゾンビ音楽がゾンビな理由は三つくらいある。

1.アンドロイドというには不完全な出来損ないだから(?)
2.これを作った頃に映画『フランケンシュタイン』を見て、「もっと自分の作ったものに向き合えよ!」と、思ったから(?)
3.これは電気で動いているので、つまり、人間のエネルギーを食って動いているから(?)

以上がMCでの本人の説明だったのだが、よく分からん。
これらは「ゾンビと呼ぶ理由」にはならないと思う。


3.
たぶんこれは「テクノロジーとの距離感が少し変な、インダストリアル・ミュージック」なのだろう。
発電機みたいなもののブウーンというエンジン音から始まるし、ちゃんと吹かれていないリコーダーの不安定なピッチは不穏だし。機械式の指がカチャカチャとリコーダーに当たる「パーカッシヴな音」はこのジャンルの音楽によくある、鉄屑を叩く音みたいなものだ。
ただ、ふつーのインダストリアル・ミュージックが工業製品から音を引き出すことで何かを意味しようとするものだとすれば、これは「工業製品から音を引き出すことで何かを意味しようとすること」を真似ることで、何かを意味しようとしているのかもしれない。つまり、これはメタ・インダストリアル・ミュージックなわけだ。ここでゾンビ扱いされているのは「工業製品を揶揄することに何か批評的な意味があると考える、過去のイタリア未来派的な心性の現在における生き残り=ゾンビ」なのかもしれない!
たぶん!


4.

とはいえあるいは、実はやはりこれは、なんとなく浮かびあがっているユーモアとかテクノロジーを使いこなせていない下手くそさが愛らしいものなのかもしれん。
本人は、髪の毛を赤く染めて無精髭も生やしてヤンキーみたいなのだけど、話し方がとても柔らかい。トツトツと誠実そうに話すひとだったし。「トツトツと」という言葉がけっこう似合いそうだった(ほんとはどういう人かは知らないけど)。



参考:安野太郎のゾンビ音楽「デュエット・オブ・ザ・リビングデッド」 | メディア芸術カレントコンテンツ:by畠中実

2013年3月3日日曜日

DVDで『おおかみこどもの雨と雪』(2012)

妻がひとりで映画を見に行って感動したらしく、DVDを購入していた。
確かに面白かった。
最後、夢のなかと、雨(男の子)を見送る場面での花(主人公のお母さん)のセリフが感動的だった。

しかし!
これは徹頭徹尾「父親が死んだ後の子育て」のお話である。
クワバラクワバラ。

簡単に地縁血縁を捨ててはいけないとか簡単に自宅出産するなとか母性が強すぎとか、そんなことで色々批判することには意味が無いと思うけど、登場人物たちみんな、どうやって生計をたてているのかは気になった。

おおかみこどもの雨と雪(本編1枚+特典ディスクDVD1枚)
B00AHRI4H2