2010-10-23

村上隆と村おこし系アート・フェスティヴァルについて

美術手帖2010年11月号
最近、村上隆のツイートが面白かったので、数年ぶりに『美術手帖』を買った。パワフルで面白い人だなあ、と思った。
で、ちょっと思ったことを乱雑にメモ。
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下に書いたメモを要約すると、つまり、そこで語られる「アート」とその「アート」に対する需要は誰のものなのか? と思ったのだ。
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村上隆と村おこし系アート・フェスティヴァル(きっと何か別の言い方があるに違いない)は、規模と格とか質とか影響力とか色々な点で違うけれど、「アート」の使い方という点で、似ているところがある。

「何らかの形態をもつ作品が、その形態のゆえに良いものと判断されたり何らかの影響力を持つ」というのはフィクションに過ぎないことを認識したうえで、それでもなお「アート」を作り、それが実際に社会的な実効力を及ぼすものとして仕上げることができるのが、村上隆のすごいところなのかもしれない(「工房」抱えて「現代美術」作って、なのに/しかも、ちゃんと経営続けていること、とか。立派な中小企業の社長さんだ。でも「中小企業」っていうほど小規模ではないようだ)。
だとすると、それがフィクションに過ぎないことをさほど意識せずに「アート」によりかかっているくせに、でも、実態としては、作品が「その作品そのものの自律的な価値」だけで評価されるのではなく「アート」と名乗ることによって何らかの社会的な実効力を獲得するというある種の「アート効果」に依存するのが、村おこし系アートフェスティヴァルだと言えるかもしれない(誇張して単純化してるので、なんかひどい言い草だ)。

「モノ」を作るけれど、それが現実に影響力を持ち得るものとしてつくるという点で、村上隆は稀有の存在なんだろう(たぶん。他の例をよく知らないけど)。
どのような意図のもとで作られるものであれ、「アート」が役立つかもしれないパッケージかもしれないという点で「村おこし系アートフェスティヴァル」の今後は注目に価するものだ。
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とりあえず、来月、「木津川アート2010」を見にいこう。
たぶんこのポストのことは忘れて、けっこう楽しむだろう。

木津川アート2010 | 平城遷都1300年祭・第26回国民文化祭
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疑問点1
この活動を判断する基準の前提を知るのが面倒くさいこと。
「外国では…」とか言われても「そんなもん知るか」と思う。
決して、国内で自閉することの恥ずかしさとか閉塞感さえ感じることのない「JPOP的なもの」を良しとするわけではないけど、それなりに自閉している人間に訴えかけるものでないならば、それは、今の日本で作られる必要はあまりないのではないか。
少なくとも、日本を相手にしているわけではない、ってことではないのか。

とすると、必然的に、作られる作品にアクチュアリティを感じるための文脈にあまりリアリティを感じられなくなる。
そういう人間は「日本の中で自閉している」と言うのは正しいと思うけど、「もっと世界レベルの視野を持て」と言うのは、「アート」の仕事なのか?と思ったりする。

というか、言わずにいられないんだろうな。
大変だなあ…。

疑問点2
村上隆が、とても優秀な中小企業の社長さんみたいに活動的な交渉力を駆使して活躍している「アートワールド」に対する需要は、どこにあるんだろう? 金を出す人たちは。
少なくとも、「印象とかゴッホの画集を見て息抜きをする人たち」ではないと思うのだ。
「日本じゃ××だが、世界では…」とかいう話ではないとも思うのだ。
USAだけを考えても、Walmartの従業員とか中西部の白人が「アートワールド」に関心があるとは思えない。


レンブラントとかの工房に金を出していたのはネーデルランドの浮遊市民層でレンブラントの工房はそこに肖像画や歴史画を供給していたとすれば、僕は、「KAIKAIKIKIという工房はどこに何を供給しているからお金を得ているのか」がよく分からんのだな。


ワールドアートと美学

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