http://www.syabi.com/contents/exhibition/movie-2341.html
1.
『興味深い時代を生きますように(May You Live In Interesting Times)』という映像作品があるらしいという前知識だけで、『フィオナ・タン まなざしの詩学』を見た。この中国の呪いのことわざ(と言われるけど実は20世紀半ばにアメリカ人が創造したと思われる言葉)が、翻訳中の本にあったので。
その程度の動機で行ったけど、面白かった。現実に対する新鮮な視線を提供してくれる映像作品群だった。
僕らの普段の物見方はけっこう凝り固まっている。実際に人間を正面像で見ることはほとんどないのに、正面像の写真記録が「ふつー」だと思う。そんな「常識」をこそげ落として、しかし「こそげ落としたから出てくるホンモノの唯一正しい何か」を提示するのではなく、ちょっと違う角度からの物事の見方をシンプルなやり方で提示する、そんな作品たちだった。この喩えはどうかとも思うけど、ちょっと古くなったゴボウの皮をもう一度綺麗にこそげ落として、それを使って、シンプルで美味しいサラダに仕立てあげる、みたいなひとだった。
あと、今やっている展覧会を最後に(9月23日まで)、東京都写真美術館は二年間の休館期間に入るらしい。あそこに行く以外に恵比寿に行くことなんか、ないだろうなあ。
展覧会カタログには「安全な立脚点を持たない旅人の目線で世界と向き合うことを選んだ」(57)という言葉があった。このカタログは、展覧会の作品を再録したものではなく、フィオナ・タンを解読する色々なキーワードとその解説1200字(何文字かは知らないけど)、みたいな用語集だった。展覧会の作品の情報がきちんと収録されていないのは困ったなあと思ったけど、良いカタログだったな。
2.
『興味深い時代を生きますように』(1997)は、インドシナ華僑の父とオーストラリアの母との間に生まれたフィオナ・タンが、世界中に散らばって生きているタン一族に会って話して、最終的には、中国の田舎にある、村人全員がタンさんという父の祖先の村にまでいく、というドキュメンタリー。
フィオナ・タンの両親は、最初はインドシナで結婚して生活していたが、『アクト・オブ・キリング』で描かれたようなインドシナの政変――とはいえ結局まだ見れてないのだけど――の後、政治的な問題などがあって生活するのが難しくなって来たので、オランダの華僑のもとに身を寄せる。
ややこしくてたぶん正確に理解していないのだけど、フィオナには、インドネシア、オーストラリア、オランダ、香港、中国にいとこやオジオバがいるらしい。で、それぞれが、自分のことをオランダ人だと思ったり世界市民だと思ったり中国人だと思ったり華僑だと思ったりしているらしい。
で、フィオナは、彼らと会って話をして、自分のアイデンティティとかフルサトとかに思いを馳せるわけである。もちろん、最終的に「本当の故郷、とか、確定した自分のアイデンティティ」を見つけ出すわけではなく、「そういうものを求めたけど、見つからなかった、ただ、この旅の途上で出会った人びとの姿が胸に焼き付いている」みたいな終わり方をする。
3.
こうまとめると、なんだそりゃ?とも思うが、僕は爽快だった。
最後に辿り着く中国の田舎の村は、ワン・ビン(王兵)監督の『無言歌』とか『三姉妹 雲南省の子』などに出て来るみたいな村なので、そりゃオランダみたいな西洋近代社会で生活してきた人間なら「私はこの村では暮らせない」っていう結論になるよなあ、と思った。「ルーツ」と「ふるさと」は別物なので、あらゆる生命のルーツは海にあるけど、起源から遠く離れて生きてきた我々はもはや海中では生きていけないように、「ルーツ」が常に暮らしやすいわけない。
何らかのホンモノの「アイデンティティ」とか「ふるさと」を捏造して何かある種の物語に仕立てあげる素振りもみせずに、こういう当たり前な(に見える)視線を提示してみる、ってのが、爽快だった。「私はなに、どこからきた?」みたいな、もしかしたら普遍的なのかもしれない問いに対して真正面から答えようとして、その問いには答えられないことを「明快に示す作業」を見て、爽快だった。こういうのがこの作家の特質なのだろうか。この作家は、こういうある種のシンプルさが素晴らしいのかな。
4.
ただ、このドキュメンタリーが『興味深い時代を生きますように(May You Live In Interesting Times)』というタイトルになっている理由はイマイチ分からなかった。いちおう、インドネシアの虐殺が自分の家族が世界中に散らばった原因なので、タン一族がこのことわざの「You」ってことなのかな? つまり、タン一族は、誰かに「興味深い時代を生きますように(May You Live In Interesting Times)」という呪いの言葉をかけられたのだ、という意味か。
ただ、ぼくはこの諺が呪いを意味するということがよく分からない。この諺の反語的なニュアンスがよく分からず、むしろ「興味深くも楽しい人生を送りなさい」というお祝いの言葉として使うこともできるんじゃないかなあ、と思ったりする。だとするとこのタイトルは、「タン一族は興味深くも楽しい人生を送っているぞ」という自慢のタイトルなのかなあ、と思ったりもする。
まあ、よく分からんのだけど。
5.
他の映像作品もそれぞれ骨があって面白かったな。
マルコポーロの言葉の朗読と、その朗読とほぼ無関係に東南アジアの映像が続く作品とか、ひとつの部屋のなかで六種類の質感の映像を同時に見せるインスタレーションとか、面白かった。ビデオカメラ、8mm, 16m, 35mm, HDD、あともうひとつ何か、あわせて6種類の映像メディアで博物館の収蔵品を映し出し、6つの画面をひとつの壁に投影するインスタレーションなのだけど、そういう古いものには色々な時間層が積み重なっているという基本的な事実を、「古いもの」にあまり関心のない僕にも教えてくれる。
などなど
(
ただし、音がだせえ、とおもった。リズムなしで弦楽器の不協和音を数秒出すだけ、なのだが、なんともテンプレな効果音にしか聞こえない。
誰か音をいじってくれるひと、いなかったのか?
最後にそれを思いました。
)
1.
『興味深い時代を生きますように(May You Live In Interesting Times)』という映像作品があるらしいという前知識だけで、『フィオナ・タン まなざしの詩学』を見た。この中国の呪いのことわざ(と言われるけど実は20世紀半ばにアメリカ人が創造したと思われる言葉)が、翻訳中の本にあったので。
その程度の動機で行ったけど、面白かった。現実に対する新鮮な視線を提供してくれる映像作品群だった。
僕らの普段の物見方はけっこう凝り固まっている。実際に人間を正面像で見ることはほとんどないのに、正面像の写真記録が「ふつー」だと思う。そんな「常識」をこそげ落として、しかし「こそげ落としたから出てくるホンモノの唯一正しい何か」を提示するのではなく、ちょっと違う角度からの物事の見方をシンプルなやり方で提示する、そんな作品たちだった。この喩えはどうかとも思うけど、ちょっと古くなったゴボウの皮をもう一度綺麗にこそげ落として、それを使って、シンプルで美味しいサラダに仕立てあげる、みたいなひとだった。
あと、今やっている展覧会を最後に(9月23日まで)、東京都写真美術館は二年間の休館期間に入るらしい。あそこに行く以外に恵比寿に行くことなんか、ないだろうなあ。
展覧会カタログには「安全な立脚点を持たない旅人の目線で世界と向き合うことを選んだ」(57)という言葉があった。このカタログは、展覧会の作品を再録したものではなく、フィオナ・タンを解読する色々なキーワードとその解説1200字(何文字かは知らないけど)、みたいな用語集だった。展覧会の作品の情報がきちんと収録されていないのは困ったなあと思ったけど、良いカタログだったな。
2.
『興味深い時代を生きますように』(1997)は、インドシナ華僑の父とオーストラリアの母との間に生まれたフィオナ・タンが、世界中に散らばって生きているタン一族に会って話して、最終的には、中国の田舎にある、村人全員がタンさんという父の祖先の村にまでいく、というドキュメンタリー。
フィオナ・タンの両親は、最初はインドシナで結婚して生活していたが、『アクト・オブ・キリング』で描かれたようなインドシナの政変――とはいえ結局まだ見れてないのだけど――の後、政治的な問題などがあって生活するのが難しくなって来たので、オランダの華僑のもとに身を寄せる。
ややこしくてたぶん正確に理解していないのだけど、フィオナには、インドネシア、オーストラリア、オランダ、香港、中国にいとこやオジオバがいるらしい。で、それぞれが、自分のことをオランダ人だと思ったり世界市民だと思ったり中国人だと思ったり華僑だと思ったりしているらしい。
で、フィオナは、彼らと会って話をして、自分のアイデンティティとかフルサトとかに思いを馳せるわけである。もちろん、最終的に「本当の故郷、とか、確定した自分のアイデンティティ」を見つけ出すわけではなく、「そういうものを求めたけど、見つからなかった、ただ、この旅の途上で出会った人びとの姿が胸に焼き付いている」みたいな終わり方をする。
3.
こうまとめると、なんだそりゃ?とも思うが、僕は爽快だった。
最後に辿り着く中国の田舎の村は、ワン・ビン(王兵)監督の『無言歌』とか『三姉妹 雲南省の子』などに出て来るみたいな村なので、そりゃオランダみたいな西洋近代社会で生活してきた人間なら「私はこの村では暮らせない」っていう結論になるよなあ、と思った。「ルーツ」と「ふるさと」は別物なので、あらゆる生命のルーツは海にあるけど、起源から遠く離れて生きてきた我々はもはや海中では生きていけないように、「ルーツ」が常に暮らしやすいわけない。
何らかのホンモノの「アイデンティティ」とか「ふるさと」を捏造して何かある種の物語に仕立てあげる素振りもみせずに、こういう当たり前な(に見える)視線を提示してみる、ってのが、爽快だった。「私はなに、どこからきた?」みたいな、もしかしたら普遍的なのかもしれない問いに対して真正面から答えようとして、その問いには答えられないことを「明快に示す作業」を見て、爽快だった。こういうのがこの作家の特質なのだろうか。この作家は、こういうある種のシンプルさが素晴らしいのかな。
4.
ただ、このドキュメンタリーが『興味深い時代を生きますように(May You Live In Interesting Times)』というタイトルになっている理由はイマイチ分からなかった。いちおう、インドネシアの虐殺が自分の家族が世界中に散らばった原因なので、タン一族がこのことわざの「You」ってことなのかな? つまり、タン一族は、誰かに「興味深い時代を生きますように(May You Live In Interesting Times)」という呪いの言葉をかけられたのだ、という意味か。
ただ、ぼくはこの諺が呪いを意味するということがよく分からない。この諺の反語的なニュアンスがよく分からず、むしろ「興味深くも楽しい人生を送りなさい」というお祝いの言葉として使うこともできるんじゃないかなあ、と思ったりする。だとするとこのタイトルは、「タン一族は興味深くも楽しい人生を送っているぞ」という自慢のタイトルなのかなあ、と思ったりもする。
まあ、よく分からんのだけど。
5.
他の映像作品もそれぞれ骨があって面白かったな。
マルコポーロの言葉の朗読と、その朗読とほぼ無関係に東南アジアの映像が続く作品とか、ひとつの部屋のなかで六種類の質感の映像を同時に見せるインスタレーションとか、面白かった。ビデオカメラ、8mm, 16m, 35mm, HDD、あともうひとつ何か、あわせて6種類の映像メディアで博物館の収蔵品を映し出し、6つの画面をひとつの壁に投影するインスタレーションなのだけど、そういう古いものには色々な時間層が積み重なっているという基本的な事実を、「古いもの」にあまり関心のない僕にも教えてくれる。
などなど
(
ただし、音がだせえ、とおもった。リズムなしで弦楽器の不協和音を数秒出すだけ、なのだが、なんともテンプレな効果音にしか聞こえない。
誰か音をいじってくれるひと、いなかったのか?
最後にそれを思いました。
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