2015-10-10

メモ:音響文化研究会関連イベント:金子智太郎(東京藝術大学)「1970年代の日本における生録をめぐる言説」:第66回美学会全国大会「シンポジウムII アイステーシス再考」

第66回美学会全国大会の当番校企画「シンポジウムII アイステーシス再考」に、音響文化研究会の金子智太郎くんが登壇し、1970年代の日本における生録をめぐって発表しました。
登壇者は下記の通り。
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小林信之(早稲田大学) 司会・趣旨説明
村田純一(立正大学) 「見えないものを見る――カンディンスキーと色彩の多次元性」
金子智太郎(東京藝術大学) 「1970年代の日本における生録をめぐる言説」
太田純貴(鹿児島大学) 「サイコメトリーについて」

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それぞれの発表詳細はそのうち全国大会の報告としてどこかに発表されるだろうから、とりあえず僕は自分のメモを記しておきます。

1.
金子くんの発表は、70年代の生録ブームにおける「聴覚性(この発表では、ある特定の文化における耳の使い方、程度の意味)」について考察すること、でした。そのために70年代の生録をとりあげ紹介し、そこでの録音術(phonography)(この発表では、この概念は、装置の機能だけではなく装置の使い方も含めた録音活動全般を指す言葉)を分析することで、ある個別特定の文化における聴覚の使い方を理解しようとしたものでした。

僕はこれを、視覚性(visuality)と対比できるかもしれないような言葉としてとりあげ、ある特定の時代における聴取の技法を考察したものとして聞きました。

こうした研究の先行研究――Karin Bijsterveld, Peter Manuel, erc――もしっかり紹介されており、研究の方法論――聴覚性や録音術といった概念の整理――についても言及されており、研究対象の紹介――1970年代に出版されたオーディオ雑誌や入門書――も充分なされており、研究発表として非常に分かりやすい良い研究発表だったと思います。
とりあえずの仮説的結論として70年代の生録ブームの背景は60年代のステレオ録音術の背景かもしれないということをしてきていました=70年代のこうした聴取の技法が発達したのは60年代にステレオ録音術に適合的な聴取の技法がすでに浸透していたからこれはJonathan Sterne, "The stereophonic spaces of soundscape" in Living Stereoのなかでも同様のことを述べられているらしいのですが僕はすぐには納得いかないので詳しく議論を展開して欲しい
70年代の生録における聴取の技法は、アマチュア写真の実践とどのように関係するといえるのだろう、といったことも思いました。
そうした議論も含めて、今後の議論に期待。とりあえず今回の発表は活字化しておいて欲しい。

2.
で、この発表内容以外にも興味深かったことがもうひとつ。
この発表と他の発表者との内容や語り口が全く違った、ってのが、面白かったです。で、どうやら、たとえば村田先生による本格的な哲学的な知覚論(視覚の問題を論じていた)が、この美学会では知覚の議論として受け入れられやすい、ということを改めて感じました。
良いとか悪いとかは思わないけど、聴衆の多くが、この生録の議論は知覚の技法の議論だと思ってなかったような気もする。
僕の学問的な関心はあまり抽象的な理論のレベルには向かわないし、僕は、感性の技法は歴史的脈絡の中に組み込まれてしまっているものだということをスターンによる視聴覚連祷への批判から学んだので、こういう生録における聴取の技法に関する議論こそが知覚の議論なのだけど。
たぶん僕の立場も言い過ぎなところもあるのだろうけど、とにかく、個人的には、違和感を感じてはっきりさせることができたのは良かった。ただし、その違和感と違和感の解消は、学会レベルでは共有されていないけど。

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