帰りの新幹線で『泥の河』。
確かに傑作。田村高廣がカッコ良すぎるけど。
教育の重要性。幸せとは何か。子を持ち父の気分で見るようになり、親は子どもに介入できないことが多いのだと感じるようになった。
2年前のポイントが残っていたのでグリーン車なのである。
生きてるだけでまるもうけ
帰りの新幹線で『泥の河』。
教育の重要性。幸せとは何か。子を持ち父の気分で見るようになり、親は子どもに介入できないことが多いのだと感じるようになった。
2年前のポイントが残っていたのでグリーン車なのである。
原作というか回想というかは、トランプ支持者層の具体的イメージを教えてくれるという触れ込みにつられて、翻訳が出てすぐに読んだ。ラストベルトの(絶望した)白人たちがトランプ支持層なのかどうかは分からないままだったが、とにかく面白かった。面白かったのは、そこでは、自分がよく知らない価値観に基づく人間コミュニティが描かれていたからだ。「アメリカ人」にも色々あるんだな、という当たり前の話ではあるが、極東アジアの人間として、そういう当たり前の話も面白い。
映画はそこらへんが矮小化されていた。これではやはりあくまで「個人」の(努力して勝利したというよくある)物語に過ぎないんじゃないか。原作が面白かったのは〈勝てなかった人々のコミュニティが、かなりのボリュームであると教えてくれたこと〉なので、この映画では、母親はただのダメな母親にしか見えないのではないか。
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矢口高雄『おらが村』をKindle Unlimitedで読む。驚きの、同調圧力に基づき成立してきた田舎の日本の村落共同体礼賛、のマンガだった。この世界観の中では「普通」から少しでも逸脱した人間の居場所がない。〈ひとはみな古来から自然と同調して生きてきた普遍的な存在なのだ〉とか信じていられたら、そりゃ居心地良かろう。しかし、現実問題としてそうではないので、そのような幻想を抱く人間は、あおいつが「普通じゃない」と判断した人間を排除するだけだし、時代の変化は現にあり得ることを無視するわけだ。
こういうのが、かつての自民党支持基盤なのだろうなあ。たしかに、「難しいこと」いう政党なんか話にならないんだろうなあ。
北朝鮮の音楽に関するポピュラー音楽の研究、とかではなく、音楽を切り口に北朝鮮を理解しようとするノンフィクションあるいはルポ。僕の好物だった。面白かった。
実際問題として、「リアル」にインタビューできた対象はあまりいないので、その意味では物足りないけど、でも、希少な内容であることは間違いない。こんなに近くに、こんなに〈日常生活の隅々まで統制されている政治体制〉があるというのは、たしかに恐怖。たとえ西側諸国にいても、北朝鮮に帰国する予定の人間は、「自由」な気分にーなることはないし、「自由」に感じることが幸せとも限らないのだろう。
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「価値基準」とは別の軸で音楽について考えるための好例であるとして、記憶しておこう。
「たとえプロパガンダ音楽であっても、その歌には、北朝鮮で生きる人たちの息遣い、時代の高揚感があり、歌とともに歩んできた彼らの人生が刻み込まれているだろう。」(あとがきより)
オンライン視聴チケットを購入して、ダンスを見たが、個々のダンスの良し悪しも作品の良し悪しもよく分からない。
そりゃ、作品の構造とかコンセプトとかダンサーの身体の細かな所作とかは、見ようと思えば、実際にその場でメガネを掛けて見るより、よく見えると言えるかもしれない。
でも、〈オンラインで視聴する〉ってのは要するに〈普段の仕事机の前で横のモニター使って仕事の続きもできる状況で、普段のディスプレイを使って動画を見る〉ってことに過ぎないので、その場所に行って集中して見ることとは比べ物にならない。
まあ、当たり前ではあるが。で、冨士山アネットの新作もVRをテーマにしたものであったが。
しかし、映画だと。この画面でも十分集中して楽しめてしまったりするのはなぜだろう。なにがどう違うのだろう。
(我ながら間抜けなことに)デフ・ヴォイスの続編と間違えて読み始めたが、軽く読めるものとして速く読んだ。が、内容は、居所不明児童をめぐるお話なので、軽くはなかった。作劇法として、「居所不明児童」に関する参考文献を読んで、そこで得た知識をけっこうそのまま入れ込む、みたいな内容だったので、「相棒」シリーズの一話、みたいな感じだった。
下の画像は、Booxでスクリーンショットをとって、それをBooxのノートに取り込んで、それから「同期」してEvernoteに送ったもの。evernoteに送ったものを見るとカラーになるんだな。
もっと手軽な同期方法はないものか。