2020-03-15

帰りの新幹線で『無法松の一生』


和太鼓が出てくるからということでずっと見たかったので、帰りの新幹線で『無法松の一生』を見て、そして、お話のオチの付け方に驚いている…。
マジか…。
植野 史、松本健太郎、他5人
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  • よく授業で使う映画です。戦前版はもっと唐突に終わりますが。
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    • 3週間前
    • 武田 俊輔
       せめて、無法松が奥さんの手を触れたり何かしてから悩む、のかな?と思ってたので、驚きました。授業に使う…。僕なら、劇場でニンニク焼くところを学生に見せたいです。
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      • 3週間前
    • 私の場合は運動会のシーン、唱歌の練習と独唱するシーン、太鼓のシーンかなと。大月隆寛の『無法松の影』の内容に触れながら使います。
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      • 3週間前
    • 武田 俊輔
       なるほど。確かにそういう風俗描写は全部物珍しかったので、視聴覚教材に使えるんでしょうね。参考書と一緒に使ったら良い事例なんでしょうねえ。
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      • 3週間前
    • そうですね。あと原作の小説『富島松五郎伝』との違いも興味深いです。
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      • 3週間前
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  • これは阪妻ですか?三船敏郎ですか?どちらも名画だと思います。
    • 山本 泰生
       三船敏郎です。ある時代のエートスをピシッと描いている、という意味では名画なのかもしれないと思うんですけど、物語の筋立てがもうなんとも共感できないので、物語としてすっきりしているのが逆に、何とも驚きのご都合主義に見えて、驚きました。
      というか、名画なんですね。〈和太鼓の登場する映画〉という情報しか持たずに見てました。
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      • 3週間前
    • 中川 克志
      さん なるほど。この物語は原作の小説の題名(「富島松五郎伝」) も、原作者の名前(岩下俊作)も忘れられてしまっているのに、何度も映画化され、歌謡曲になり、浪曲になり、誰が仕掛けたわけでもなく図らずもメディアミックスのようになった不思議な現象です。
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      • 3週間前
  • 小説『富島松五郎伝』というのはこれですね。プレミア価格ついてるのかあ。https://www.amazon.co.jp/%E5.../dp/B000J7VILE/ref=sr_1_9...... もっと見る
    富島松五郎伝 (1981年) (中公文庫)
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    • 3週間前
    • この作品の場合、近代文学の一般的な評価の仕方のように、作品の出来や影響について、原作者の意図や文学史的な意義から考えることはできません。日本の近代文学史は出版事情からいっても東京中心になりますが、岩下は九州。火野葦平から、上野英信、松下竜一、石牟礼道子まで、九州は、有力なもう一つの文学圏を形づくってきました。この「無法松」については、日本の近代化の歴史的経験の中で、原作者・脚本家・映画・舞台・音楽・俳優・歌手だけでなく、享受する大衆も参加して、ひとつの人物像を共同作業の中で造形していき、そこに近代日... もっと見る
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    • おお、なるほど、これはいわゆる「日本人論」のたたき台にも使われそうなフィクションなんですね。『男はつらいよ』以前の「日本のステキな庶民」という表象かもしれないんですね。すごいテキトーなこと言ってしまいましたが。なるほどー。
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      • 3週間前
    • 中川 克志
       さん そうなんですよ。本当に見るたびに考えさせられるところの多い「名画」だと思っています。
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      • 3週間前
    • 『無法松の影』は、日本近代社会史としても、また戦後日本における「無法松」の表象をめぐるメディア論的な分析としても秀逸だと思いますので、ぜひ!
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      • 3週間前
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2020-03-13

メモ:土取利行(はじとりとしゆき)『壁画洞窟の音 旧石器時代・音楽の源流をゆく』(青土社、2008年)


壁画洞窟の音 旧石器時代・音楽の源流をゆく

最初の(7インチタブレットではなく)iPadを使ったPDF斜め読み本。アプリはGoodreader。
*
買ったときには「ある種のトンデモ本かな?」と失礼なことを思って落手したが、真摯に真面目な本だった。縄文時代の日本の地層は酸性なので、古代の音や楽器を想像するためには海外を探るしかない、そこで、著者はピーター・ブルック国際劇団で演奏家や音楽監督として活躍して世界的に有名なこともありツテをたどれたので、実際に世界中で壁画洞窟などに入り込み、民族音楽の調査研究をかなり実際的に進めているらしく、本書はその報告。
実際的というのは、可能なところは文献などを通じて勉強するが、要所要所で、実際に壁画洞窟の中に入り込んで、石筍を演奏したり鼻笛を演奏してみたりして、そこではどのように音が響くかを実際的に確かめている、という意味である。
なのでその記述はかなり神秘主義的だと僕は感じるが、こういうやり方で物事を知る、というやり方ももちろんあるだろう。
けっこう、ふーん、と思って読んだ。
著者は1987年から桃山晴衣とともに岐阜県郡上八幡に「立光学舎」を設立し、活動しているらしい。
また、桃山晴衣の死後も、添田啞蟬坊の演歌を復元(? 復原??)したりもしているらしい。


2020-02-21

分子運動の音楽について

分子の振動といえば、ジョン・ケージが「灰皿」について述べた言葉が有名。
「この灰皿をみてください。これは振動状態にあります。私たちはそのことを分かっていますし、物理学者は証明することができます。しかし私たちはその振動を聞くことはできません。無響室に入った時、私は自分(が発する音響)を聴くことができました。だから今度は、自分(が発する音響)を聴く代わりに、この灰皿を聴きたいのです。しかし私は、打楽器にするように灰皿を叩くつもりはありません。私は灰皿に内在する生を聴こうとするのです。そのために私は、そのために設計されたのではないでしょうが、適切なテクノロジーの助けを借りるのです。」(Cage, For the Birdsより)

そして、まさに分子の運動を音/音楽に変換した事例としてPeter Weibelが紹介するのが、Thierry Delatourというひとの事例。

なぜこんな音色になるのか分からないが。
P. Weibelは2013年にMolecular Aestheticsという展覧会をしているし、T. DelatourさんにMolecular Songsというインスタレーション作品を作ってもらっているようだ。
(典拠:Weibel, Peter. 2019. “Sound as a medium of Art.” in Sound Art: Sound as a Medium of Art. MIT/ZKM Karlsruhe. 2019: 134.)

ググってみてもThierry Delatourという人の情報は出てこない。が、「分子運動 音楽」と検索すると、別の人名が出てきた。

分子の音 身体のなかのシンフォニー | 毎日新聞出版


どうやら、分子運動から音・音楽を生成するというのは、アート業界以外の場所でも話題になったことのようだ。

↓
というか、00年代前半にnano biotechnologyという領域で「cellular sounds」という技術(???)が開発されたようだ!
The Dark Side of the Cell by Anne Niemetz and Andrew Pelling:ウェブサイト



2020-02-19

メモ:Channa Horwitzというヴィジュアル・アーティストのSonakinatographyという方法論

Channa Horwitzというヴィジュアル・アーティストのSonakinatographyという方法論があるらしい。
(典拠はWeibel, Peter. 2019. “Sound as a medium of Art.” in Sound Art: Sound as a Medium of Art. MIT/ZKM Karlsruhe. 2019: 123.)
説明は短くて詳しくは分からないが、時間、リズム、空間、動きなどを視覚化する方法論らしいが…。


Channa Horwitz, Sonakinatography Movement #II Sheet B 1st Variation, 1969

https://zkm.de/en/media/video/moments-talk-with-channa-horwitz


Channa Horwitz, 'Sonakinatography, Composition III', with music by Sarah Angliss and choreography by Ellen Davis, 2016 from Raven Row on Vimeo.
Channa Horwitz, ‘Sonakinatography, Composition III’, with music by Sarah Angliss and choreography by Ellen Davis, 2016

メモ:Musikalische Graphik

図形楽譜とは逆に、音楽を目指す絵画のこと。
*
言葉の起源は1925年の本らしい。internet archiveには見つからず。
参考:Oskar Rainer, Musikalische Graphik: Studien und Versuche uber die Wechselbeziehungen zwischen Ton- und Farbharmonien. 1925. という本が「musical graphics」という言葉の起源らしい。


古書は5000円くらい?


国内でこれに言及しているものは一件しか見つけられず。
(臼井奈緒、仁志高見 2018 「ドイツにおける絵譜の研究諸相 : 音楽と絵を融合させた童謡集Liederfibelを手がかりに」 佛教大学教育学部学会紀要:17: 63–74。)

典拠はWeibel, Peter. 2019. “Sound as a medium of Art.” in Sound Art: Sound as a Medium of Art. MIT/ZKM Karlsruhe. 2019: 120.

2020-02-18

Musicalismeについて

Weibel, Peter. 2019. “Sound as a medium of Art.” in Sound Art: Sound as a Medium of Art. MIT/ZKM Karlsruhe. 2019: 12-147: 106より
”Seeing Sound”という節で、たくさんの固有名詞が列挙される中で、「musicalistes (a group of artists who called for the musicalization of art)」というものも挙げられていた。
Henry Valensiという画家が、Charles Blanc-Gatti, Gustave Bourgogne, Vittorio Straquadainiといった画家たちとともに、1932年に始めたものらしい。
が、英語の情報がほぼない。
英語版Wikipediaにも項目がないので、フランス語版のWikipediaの項目をグーグルで英語に翻訳しないといけない。

見つけられたのは、Henri Varensiのためのウェブサイトのこれだけ。
1930年代の動向なんだなあ!


2020-02-08

メモ:2020年02月08日佐藤郁哉『大学改革の迷走』

読めば読むほど、どうしようもないじゃねえか、と思った。
毎年1%ずつ予算が削減されていく結果として、後任人事がほぼ凍結され、今後も同じ職場に自分の同僚が来る予想はできないし、今後も研究教育のための状況が改善しそうな予想はまったくないのだけど、どのような過程でこうなってきたのか、を記述分析してあった。
審議会はテキトーで「審議」していないとか、「高等教育財政の充実」や「公的支出を欧米諸国並みに近づけていく」とかは30年近くに渡って言われてきたとか、文科省は「集団無責任体制」であることとか、大学当局は「経営ごっこ」と「改革ごっこ」をしていて面従腹背したり過剰同調したりして問題を先送りしているだけだとか。何らかの社会的状況を〈英雄、悪漢、バカ〉の3つの役割で記述することでひとは社会を物語化していくこと、は理解できる。〈アメリカの大学〉はすごいから、〈既存の日本の大学と大学人〉というバカはそこを目指すべき等々。
さすが『暴走族のエスノグラフィー』のエスノグラファー。でも、読めば読むほど、どうしようもないじゃねえか、と思った。

2020-01-27

メモ:無敗の男 中村喜四郎 全告白


https://www.amazon.co.jp/dp/B082PTZP52/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_KeNlEbT5VWMSA
「だが一方で、中村自身はどんな国家をつくり上げたいのか──。最後の謎はわかったようでわからない結論にしかならなかった。」(『無敗の男 中村喜四郎 全告白 (文春e-book)』(常井 健一 著)より)
まったくそうだなあ、と思った。政治家ってこれこそが重要なんじゃないのか??? なんか不思議だな。


2020-01-24

メモ:evala、∈Y∋ "レコーン”、ICCのオープンスタジオとopen possibilities、白髪一雄展、安野太郎展、(アルフレッド・ジャリ『超男性』)

2019年度のICCのオープンスタジオは、すでに行ったことがあるものだったことに行ってから気付いた。
とはいえ、evalaの高解像度のレコード音楽と比較しながらいくつかのサウンドインスタレーションと無響室作品を経験できたし、白髪一雄展を見れたのは、良かった。
しかしまあ、青山とかに行くと、疲れるな。ここらへんにも住宅はあるけど、子育てしてるとどんな感じなんだろう。どこ行っても混んでるし、どこ行っても「ヨソ」から来た人がいっぱいいるし。

◯1100-1210:evalaインビジブル・シネマ「Sea,See,She ─ まだ見ぬ君へ」@スパイラルホール
一回100人くらいの映画上映会。一日4回くらいを三日間。僕は初日の最初。最初の最初だけ、天井の明かりがパッと煌めくが、その後はずっと真暗闇の中でevalaさんの音が続く。タイトルにseaとあるからか、魚の音とか水の音に聞こえる音が多かったように思う。非常灯も消してしまう真っ暗闇のなかの作品上映って、フランシスコ・ロペスとか横浜赤レンガ倉庫のコンテンポラリーダンスで経験したことがあるが、観客の誰かの腕時計のほんの些細な明かりさえも他の人の目にはキツく入ってくるので、つらかった。本人はそのことには気づきもしていなかったのでは無いかと思うが。
ともあれ、僕はそのような「暗闇の中のevala作品再生会」としてこの映画を経験していたのだが、体感で3分の2ほど過ぎたところでやっと、それまでずっと朧げに感じられていた〈目を閉じた状態で目蓋の裏に感じるもの(丹光?)〉が、僕自身の視覚的幻影のようなものではなく、映像作家が制作した映像だったことに気付いた!
びっくりした。
つまり僕は、最初の3分の2は〈A暗闇の中で再生される音だけ〉として、最後の方になってやっと〈B抽象的なイメージ+音〉として、経験した。
Aでは〈具体音と抽象音(というかシンセサイズされた電子音というか))からなるevalaの音響が、驚くほどの高解像度で、360度に配置されたスピーカーを通じて(?)、音響世界を構築できること〉に驚いた。
Bでは〈それほど自律的に聴こえていた音響が、ひとたび視覚イメージと並走するものであることに気付いた途端、僕は、視覚イメージに従属するものとして音響を聴いてしまうこと〉に驚いた。

これは、社会的にどういうタイプの音楽なのだろう。絵画におけるスーパーリアリズムに似ているのかな、と一瞬思ったけど、SHCD的なものとも全く違うし、やっぱり違うな。
CDなどで後から録音物を再体験しても、異なる経験でしか無いから、わざわざ青山まで来たかいはあった。

総じて、非常に高解像度な録音音楽を聴いて、耳がざわつく経験だった。その後、Blockhouseまで歩き、また、原宿からICCまでバスで来て、ICCの後カフェで一休みしながらこのメモを作成しているけど、まだ、ヘッドフォンをつける気にはなれない。また、BlockhouseでもICCでも、サウンドインスタレーション作品を経験したけど、evala作品の聴取経験と比べると、どれも雑だし、甘いと言わざるを得ない。


◯1300-1900:∈Y∋ "レコーン”@Blockhouse
明治神宮前駅とか原宿駅とか
evalaの後なので、西部講堂の汚さなどを思い出し、とてもほっこりした
なんで、あんな風に、レコードを素敵に汚せるのだろう。
ああいう感性は、なんなんだろう。大竹伸朗的な感性というか20年前のパチャママを思い出すというか。

◯ICCのオープンスタジオとopen possibilities
何個か見てやっと、あ、これ、一回見た、と思い出した…。
アジアの作家たちによるサウンドインスタレーション作品たちは、evalaとアイの後だと、ざっくりし過ぎていて面白くなかった。x
→上村洋一:大和田さんの化石の溶ける音を聞く作品みたいだったな。

◯白髪一雄展@東京オペラシティ
何とも安定の懐かしのアヴァンギャルドは、見ていて落ち着く。レトロだ。
この作品のポイントは、絵具が盛り上がっていること、なので、図版でもよく分からないよなあ、と再確認する。
絵具を足で広げると、人はどうしても何らかの秩序に基づいて整理したくなるものだろうから、それを我慢して、できるだけハテンコーにしようとしたのだろう、と想像した。が、いつまでも同じようなことやってて飽きなかったのかなあ、と思った。ポロックがポーリングをしていたのは10年にも満たない限られた時期だけのはずだし。

◯安野太郎 : アンリアライズド・コンポジション「イコン2020-2025」@アートフロントギャラリー(0110-0202)
中目黒駅の近く(以前、國學院の帰りにカールステン・ニコライを見に行った場所)

ふいごをガムテープで貼り付けてあったのはなんだろう。

◯アルフレッド・ジャリ『超男性』
「フランス文学」だった。

2020-01-12

メモ:心ある機械たちagainについて:「現象」とは何か問題

展示は秀作が多く面白かった。
ひとつ、肯定的でも否定的でもないのだけど、気になった表現(作品といプロフィール欄における)がある。それが「現象」というターム。リーフレットでは、早川祐太さんの作家紹介に「…重力や空気、水の表面張力といった「現象」を取り入れ、彫刻やそれらを構成したインスタレーションの作品を制作。ものの所存に触れる試みとしての作品を制作している。…」とあり、そういうのが気になった。早川さんの作品は面白かった。〈天井から吊るしたペットボトルをくるくる回し、その中の水が一定状態であるかのように見える〉タイプの作品とか。コーヒーカップのなかのコーヒーが常にくるくる渦巻いている作品やA4の紙が水平状態のまま落ちていく作品などを作る片岡純也さんの作品も同様かもしれない。
つまり、これらの作品の説明に「現象」という言葉を使うこと、あるいは、そうした作品を「〈現象〉をテーマにしている」と自分が感じてしまうこと、そういうことが気になった。

言うまでもなく、「現象」という言葉の意味は大きすぎる。「現象」ではないモノやコトなどないのだから、未だ現代的な意味でのアーティストという概念さえなかった17世紀のルネサンスの画家もまた、「現象」を相手にしていた。
しかし、私たちはしばしばあるタイプの事象や現象や行動を「現象」と呼ぶ。これは、今のところはっきりと言葉で表現されていない事柄を主題にしているがゆえに他に何と言えば良いのか分からないので、「現象」という言葉を使っているだけであって、絵画ではないし彫刻でもないしパフォーマンスでもないしマーブルマシンでもないようなものを「現象」と呼んでいるだけなのだろう。David Toopが、(たんにlive installationistとかではなく)梅田哲也や堀尾寛太などをphenomenologistと呼んだのと同じ構造なのだろう。
この「現象」という言葉はあまりにもマジックワード過ぎるし、マジックワードのままでもう何十年も使われ続けているように思う。〈批評的に鋭い表現〉とかでなくて良いので、もう少し明快な言い方はないものか。

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中川 克志さんはBankart Stationにいます。
BankART Stationにて「心ある機械たちagain」
土下座してコーヒーをもらう作品が話題だが、秀作が多かった。
記憶に残ったのは、西原尚さんやら牛島達治さんやらA4の紙が水平のまま落下する作品(片岡純也)やらクルクル回るペットボトル(早川祐太)やら文庫本を文字単位で切り刻んでうねうねくねらせるの(三浦かおり)やら。
作品について考える時に「現象」という言葉が使われることが、気になった。マジックワードみたいなものと考えるべきか。

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娘はA4の作品と文字単位の作詞と、マーブルマシン的な作品(川瀬浩介)が面白かったらしい。