2012-08-26

生成音楽ワークショップ第7回ジョン・ケージ《失われた沈黙を求めて(プリペアド・トレイン)》(1978 / 2012)の感想

岐阜の大垣市まで行って、生成音楽WSのプリペアド・トレインに乗ってきました。
大垣駅から片道1時間ほど樽見鉄道の貸切電車に2,30人くらいで乗って、樽見駅というところまで行って戻ってきました。
窓から見える景色は素晴らしく、風光明媚な山と川、どこまでも続くように見える単線線路。両脇に広がる水田はやがて電車が山に入り込み幾つかのトンネルを抜けると高架から望む青と緑の美しい川になって、のんびりとした気分で田舎の列車旅を楽しんできました。樽見鉄道は素晴らしい観光資源でした。
ただし今回は、電車が奏でる音楽も一緒に楽しみました。
楽しかったです。
最後に大垣に戻ってくる手前で、「耳に入ってくるいろいろなものは渾然一体としたままですべて音楽になるのかもしれない」というような気分にもなりました。

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(以下、うまくまとまらなかった。長文です。)
これは、大垣駅から樽見駅をつなぐ樽見鉄道(片道約一時間、約40km)を使って、ケージのプリペアド・トレインという作品(?インスタレーション? 発音装置? ハプニング?)を再演しようというもので、生成音楽ワークショップの「第7回目」のイベント(? 作品発表会? 演奏会?)です。
列車が出す音やWebで中継した他の会場の音を使ったり、電車のなかでパフォーマンスを行うことで、電車を音を発する装置に変えてしまうという代物でした。
(これは、Make: Ogaki Meeting 2012と大垣で行われたIAMASのオープンハウス―いわゆるオープンキャンパス的なものでMAKEの隣の会場でやってた―と、明日行われる「ケージ・ミュージサーカス・イン・東京」(サントリーサマーフェスティバル)にあわせて行われたものなので、他の会場とは、そのみっつのことみたいです。)

この電車が発する音は、ふつうに電車に乗っていると聞こえてくる音―エンジン音とか風をきる音とか線路の近くを走る自動車のエンジン音とか―、車内のスピーカーが発する音、フェイスタイム経由の音声、車外のスピーカー、パフォーマンスの音声、といったものです。
電車の車内にはふたつスピーカーが設置されていて、ひとつのスピーカー(大垣側)からは電車車両のディーゼルエンジンの音や、車両と線路が接触する音が流されていました。もうひとつのスピーカー(樽見側)からは運転席周辺の音を流してました(が、これはあまり大きな音にはしていませんでした。アナウンスが二重に聞こえると困るから大きくしていなかったのかもしれません)。
また、それぞれのスピーカーの上にはiPadが設置されていて、FaceTimeで関連イベント会場とリアルタイムに映像や音声をやり取りしていました。これはトンネルでネット接続が途切れることはあったけれど山奥に入っても最後まで続いていました。
また、駅で停車すると他の会場の音が車外に取り付けられたスピーカーから流されていました。
また、帰りの車内では何人かのひとがパフォーマンスしてました。

で、こういう仕掛けはどう聞こえたのかというと、です。
例えば、電車の先頭で、ずうっと単線の線路が続く、映画『スタンド・バイ・ミー』を思い出させるような風景を見ていると、後ろから電車の外側で聞こえているであろう音が追っかけてくるように聞こえてきます。「前に前に進もうとする少年のようなノスタルジックかもしれない心」が後ろから追っかけてくる音にひっぱられて、常に前つんのめりになっていたような気もしました。
また、途中で何度か駅で停車した時には、電車の外側で何かの音ー別会場からの中継音ーが無人駅に虚しく流されるのを聞いたり、このイベントに関係なしにその駅で降りる乗客たちが「なんだこりゃ?」という顔つきで通り過ぎて行くのを眺めることになります。自分がいる場所や自分が聞いている音は世界の中心ではなくて、他にも世界の中心があること、イマココではない他の場所があること、自分たちがいるこの場所は他の人からは奇妙に見えるかもしれないことを意識させられることで、電車の車内にいる自分の意識が少しずらされるように感じたような気もしました。
で、要するにどうだったのかというと、何かロマンティックにひとつの音源とか音楽とか何かの意識に集中するんじゃなくて、常に何か別のものに意識をずらされることで、ある対象を聞く時の耳のバランスとか枠組みが常にずらされ続けたんじゃないかと思うのです。
このプリペアド・トレインの最大の快楽は、この「耳のバランスが常にずらされ続けること」にあったんじゃないかと思います。

電車のガタゴトいう音を楽しく聞いているとすぐにその音を増幅した音がスピーカーから流れてくるので、ガタゴトいう音を単純に「田舎の列車旅を象徴する指標音」としては聞いていられなくなります。あるいは、車内で聞こえてくる音響は全体的にどういう音が多いのかある程度把握した後に電車が停車すると、車内のサウンドスケープはあくまでもその狭い空間内部の音でしかなくて、他にも色々なサウンドスケープがあることを意識することになります。そういったやり方で常に耳のバランスとか枠組みがずらされ続けるのが面白かったんじゃないか、と思いました。
ある種の音を音楽だと思いながら聞いていたらすぐに別の枠組みを提示されるし、あるいは、ある種の音を音楽として楽しんでいるうちに音楽として楽しめる音はどこにでもいくらでも様々な形であり得ることに気づく、というわけです。

こういうことを考えたのは帰りに大垣に着く前あたりです。
エレキギターでずっとインプロしてるひとがいたのだけど、ほとんど手癖だけで行われる即興演奏はつまらないものだけど「ああ、そうか、この電車の中には他にも音があるんだし、これは真剣に集中して聞かなければいけないものとして提示されているんじゃないんだ」と思ったときです。
そのエレキギターの音を聴いていてもいいし、電車の中の音を聴いていてもいいし、両方を適当に一緒に聞いてもいいし、それらを聞かなくてもいいんだろう、と思ったのです。そう考えると「耳に入ってくるいろいろなものは渾然一体としたままですべて音楽になるのかもしれない」というような気分になって、なんだか楽しくなったところで大垣に着きました。
後味の良いイベントでした。

明日もあるので、IAMASのオープンハウスMake: Ogaki Meeting 2012に行かれる方は是非。

感想おしまい。



追記:
この「プリペアド・トレイン」はとても「ケージ的」な状況だった、と思いました。
ケージが元々のイタリアのプリペアド・トレインにどの程度関わっていたのかあるいは関わっていなかったのか、この「作品」の著作権などがどうなっているのかはよく知らないけれど、今日のこの状況はとても「ケージ的」で、つまり、相互浸透しつつ融通無礙な状況だったなあと思いました。
相互浸透と融通無礙(interpenetration and nonobstraction)というのはケージは禅仏教から学んだ言葉で、ケージがよく使うものです。ある物事と他の物事とは相互に独立しつつも混じり合って存在しており、私たち人間はそのような諸関係のなかに存在しながらそのような諸関係を聴き取るのだ、というようなことを言いたい時にケージがよく使う言葉です。音楽をきくとき、ひとは音楽作品を確固たる独立した対象としてのみ聞くのではなく、他にもいろいろな音をきいているものだ、というようなことを言いたい時にも使います。
要するにつまり、今日はいろいろな出来事が互いに独立しながら存在していたけれど交じり合って存在しているようにも感じられた、と思いました。
象徴的だと思ったのは、帰り道でプリペアド・トレインにすっかり飽きてずっとDSをやってた小学生くらいの男の子です。その子はこの電車に飽きたようで、どんなパフォーマンスがあっても見向きもせずにDSの画面を見ながら何かのゲームをしていたけれど、だからといってその場にいるのが苦痛でしかたがないという様子でもなく、また逆に、車内全体の感じが悪くなっていたわけでもありませんでした。電車一両だけの広さなのに男の子と車内の他の客たちは互いに独立しつつ、全体として悪い雰囲気にもなっていなかったわけです。そんな風に目の前の状況に集中している人も飽きている人もいるのがケージ的だなあ、と思いました。

まあだから、車内全員が熱心なケージファンみたいなスノッブさもなく、田舎旅行の楽しみみたいなものもあったし、でも車内に変な音が流れているのも面白かったし、なんだか楽しんでしまったなあ今日は、と思いました。

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追記
:そう、味噌せんべいとサイダーがあった。味噌せんべい、美味しかったです。

ケージの作曲(その土地の食べ物をみんなで食べること)に忠実に実行されたプリペアドトレイン。 

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