13日間で「名文」を書けるようになる方法
これは、高橋源一郎の大学の授業の講義録、という体裁になっている。
授業は、高橋源一郎が学生に読ませた文章、学生に課した課題とそれに応えて学生が書いた作文、それらに関する高橋先生の説明とか解釈で構成されている。大学での授業収録した体裁なので9回目は「休講」だったりする。
タイトルはハウ・トゥー本で、これを読めば「名文」を書けるようになるらしい。
だけど読んですぐに気付くけど、この「先生と学生の会話」はフィクションだ。学生が読み上げる作文は本当に学生が書いたものなんだろうけど、実際に授業の中で「作文」してもらうためには、もっと細かな実務的な指示(字数とか)が必要だし、「書き方に関する細かな指示」が必要なんじゃないかと思う。でもそこらへんの授業進行に関するエトセトラは(収録されていても邪魔だし)省略されている。
また、これも読んですぐに気付けど、これはハウ・トゥー本じゃあない。これは、大学受験参考書としてたくさん出ている『…先生の「英文法」(あるいは「数学」とか「化学」)講義の実況中継』とは違って、「名文を書く方法」に関する知識を効率的・能率的に伝える本じゃない。これを読み終わったからといって、すぐに「名文」を書けるようにはならない。代わりに、この本を読めば、文章(を書くこと)に関して色々なことを学んでいるかもしれない。
じゃあ何を学べるのか、というと、実は、僕は、よく分からない。20前後の大学生が、「自己紹介」とか「ラブレター」とか「憲法」とか「自分以外の誰か(一日しか記憶が持たない人)になって書いてみる文章」とか「演説」とかを書けること、そしてそれはけっこう面白い文章となること、を知るのは面白い。「名文」ってのはこの程度のモンなのかもしれんなあ、と思ったりもする。二人以上の人間が「面白い」と思う文章は、もう全て「名文」なのかもしれない。
それより僕が面白かったのは、この本は「ハウ・トゥー本」のタイトルを持つ「大学の授業の講義録」だけど、この本で時々高橋源一郎が述べていて、この本の授業において実践しようとしている「教育」は、「ある種の知識やデータを能率的・効率的に伝達する」ハウ・トゥー本とは正反対のものであろうとしていること、だった。
高橋源一郎にとって「教育」とは徹底的に人文学的なもので、高橋源一郎は「誰かが、なにかについて「考える」様子を、目の前で見ること…それ以上に「教育」的なことは、存在しないのです。」(77)と考えてる。なので、授業が15回あるとして、毎回何をしてどのような効果が見込まれるかを予め決めて授業計画表を作成するように指導する文部科学省的な「教育」には違和感を感じている。
確かに文部科学省の「指導」は馬鹿馬鹿しい。でも「教育」が変化していることは確かだろう。ここ数年の学生の変化に金して「教育」のあり方が変化し、「大学教育のための教科書」がある程度の需要が見込まれる市場になっていることは確かだと思う。つまり、大学は、あるいは大学という市場では、「ある種の知識やデータを能率的・効率的に伝達するハウ・トゥー本」が求められていると考えて良いはずだ。でも高橋源一郎は、徹底的にそういう「教育」からは距離を置こうとしているわけだ。
僕が面白かったのは、そういう「教育」の変化と「大学教育のための教科書」への需要の増加の中でこの本がたくさん売れたら面白かろうなあ、ということなんだと思う。
個人的には、人文学でも「ある種の知識やデータを能率的・効率的に伝達する」ことはとても大事な知的営為だと思う。大学が、というか文学部が、効率や能率を全て無視した「教育(と呼ばれてきたもの)」しか持たないままなら社会の中に存在する意味はないと思うけど、でも「全ての授業において毎回の目的と効果をリストアップする必要がある人文学」って、それはそれで、何にでも同じ基準を当てはめておけば満足するお役所馬鹿みたいだ、と思うので。
ということで、この本、「一般書」としてではなく「大学の教科書」だと勘違いされたままベストセラーになったら面白いなあ。
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