2021-12-28

メモ:難波祐子『現代美術キュレーター・ハンドブック』(青弓社、2015年)

現代美術キュレーター・ハンドブック 難波祐子 https://www.amazon.co.jp/dp/B07B4BK8WZ/ref=cm_sw_r_tw_dp_WABJ40H729T7X7KHSXRP

ものすごく具体的なハンドブックだったので、とても面白く読んだ。「展覧会」なるイベントから遠く離れていないけど、その準備の実際的な作業についてはほぼ知らないから、〈ああ、なるほど、へー〉と思いながら読めた。

「経験を積めば、さまざまな検討がある程度つきやすくなるものだが、とにかく最初は一つずつやってみるしかない」(59)。


メモ:Catherine Ceresole: Beauty Lies in the Eye

Catherine Ceresole: Beauty Lies in the Eye   Thurston Moore https://www.amazon.co.jp/dp/3905929430/ref=cm_sw_r_tw_dp_HPVPN35918TTM1F5BNWC 

東京都現代美術館のクリスチャン・マークレー展で、Nadiffで販売されていたクリスチャン・マークレー関連本として購入。この時は「Amazonでも売り切れていたあれやこれやが買えるなんて!」と思っていたが、帰宅してから確認したら、全部Amazonで購入可能になっていた。なんだったんだろう…?

ともあれ、これは〈クリスチャン・マークレーの本〉ではなく、写真家カトリーヌ・セレソールが80年代のNYダウンタウンシーンを撮影した写真集。マークレーのMon Ton Sonなども撮影されている。DNAやソニック・ユースなども。90年代以降の写真もある。

僕は自分の好きな音楽ジャンルを説明する時に「80年代前半のNYのノー・ウェーヴ」というので、ここらへんがまさにぴったりなのだが、写真を見ると、なんだかめんどくさそーだなー、と思ったりもする。これは、狭くて暗いライブハウスやクラブで「変なこと」しようとしていた音楽家たちの写真集。そこにまつわる色々な価値判断の在り方などを想像して、めんどくさそー、と感じるのかもしれない。80年代前半ノー・ウェーヴなら何でも大好き!ではない、ということだと思う。

もちろん〈かっこいー〉とも感じているが。




2021-12-23

塩尻かおり『かおりの生態学 葉の香りがつなげる生き物たち』(共立出版、2021年)


龍谷大学の塩尻かおりさんからご恵投いただきました。

塩尻かおり『かおりの生態学 葉の香りがつなげる生き物たち』(共立出版、2021年)

かおりが虫や植物の行動やコミュニケーションにおいてどのような役割を果たしているかを分かりやすく説明した本です。自然科学です。130ページほど。専門的内容を分かりやすく説明しているので、まったくの専門外の僕も、ざらっと短時間でへー、ほー、と言いながら斜め読みしてしまいました。

こういうのをなんと言うのか知らないけど、どうやら「実験生態学」という呼び方があるらしく、研究方法が面白いです。研究室で顕微鏡を覗いて、かおり成分の化学反応を確かめるとかではなく、もっとアウトドアなやり方です。例えば、〈ある植物が匂いに対してどのように反応するかを調べるために、人があまり来ない山中で、その植物の何十体かの枝を切り、そこにナイロン袋をかけて、それを1日後、2日後、7日後…に外す、という実験を行うことで、枝を切られたその植物の隣の枝がどのような反応を示すか〉を調べる、みたいなことをしています。具体的には、車でけっこう遠くの山まで行って、木から枝を取り外して、そして帰ってくる、というのを何日も継続して、やっとデータを得る、という感じです。

美学は五感の研究なので匂いや嗅覚に関する研究もあってしかるべきだけど、現実問題としてはほとんど研究されていないと思いますが、この本は〈自然科学におけるかおりの研究の一事例〉として、人文系の研究者にも分かりやすいです。オススメします。

このひとは僕がカリフォルニアでえらくわちゃわちゃした時にお世話になったひとりなのだけど、フレンドリーなひとなので、UC Davisにいたたくさんの理系のポスドクの人ーーあのひとたち、どうなったんだろうーーと引き合わせてくれたり、この実験にも一度連れて行ってもらったりもしました。袋を被せられた植物の写真、なんとなく見覚えがある。そういえば、僕が帰国する直前に車を貸したら、ちょうどその車が火を吹いて動かくなくなり廃車手続きをしてくれました(廃車手続きも終えてから連絡が来た。怪我なくて良かったよ、ほんと)。

で、久しぶりに連絡があったのです。本が出る、そこには、名前は出てこないけど僕が二箇所に登場する、ということでした。で、なんのことだろう、と思いながら探したのだけど、1つ目は分からなかったけど、2つ目は分かりました。

まず、2つ目の方。

こちらは読んだ途端に思い出しました。そういえば確かに、カリフォルニアからの帰国便で偶然このひとと同じ便で帰国していて、手荷物検査場で会ったことがあった。向こうは何か用事があるみたいだから僕は先に家に帰ろうと思っていたのだけど、手荷物検査されて、追いつかれた。ついでに思い出したのは、そういえば僕は30代になるまで、入国検査のときはどの国でもだいたい検査されてたし、別室に連れて行かれて全身検査されたこともあったなあ、ということです。凶悪そうな顔つきとかではなかったはずなので、たぶんジャンキーとか運び屋とかそういう感じのひとだと怪しまれていたのではないかと思います。30代以降はなくなったなあ。 

1つ目の方は分からなかったのだけど、最初のページに登場していたそうです。

この人は「かおり」という名前なので、「”かおりの生態学”というタイトルで本を書いてみようと思っている」とある友人に言ったところ「ダサい!」と返されたらしく、それが僕だというのです。でも、そんなステキなアイデアに対して僕がそんなこと言うはずないので、それはきっと別人と間違えているのだと思います。

ということで、みなさん、おすすめです。自然科学的なやり方で世界を切り取ると、こんなふうに見えるのだ、とういことがシンプルに提示されています。



2021-12-22

図録に寄稿した「クリスチャン・マークレー再論」には書けなかったメモ

2021年12月22日の夜にDOMMUNEで「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」に関するイベントがあるそうです。神戸にいるし、夜なので見れなさそうですが、言いたいことはいくつかあるので、メモを記録しておきます。5時間もあるイベントってどんな感じなんだろう。

以下は、うまくまとめられなかったので、図録に寄稿した「クリスチャン・マークレー再論」には書けなかったことです。誰か、うまいことブラッシュアップしてください。

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1.マークレーはアートヒストリーを換骨奪胎する。

クリスチャン・マークレーは明快なコンセプトで作品をつくる。さらに、その作品は過去のアートヒストリーの流れに何らかの形で関連しているように見えるが、実際にどういう動きと直接的に関連しているかは、色々な可能性がありそうなので、明確には分からない。マークレーの作品は、過去のアートヒストリーに言及していると感じられなくても魅力的だし、過去のアートヒストリーに言及しているように見えることも、こちらの想像力を掻き立てるので、魅力の一因だ。
例えば、マークレーはレコードを使う。しかし最初からミラン・ニザや刀根康尚を知っていたわけではないらしい。また、Berlin Mixというジョン・ケージのミュージサーカスのような作品(?)も企画するが、〈ケージの問題圏のなかにいることが重要な活動〉をしているわけではない。また、《cyanotypes》という作品は、簡単に言うと、カセットテープ(やカセットから引き出したテープ)を青写真(=日光写真のような技法、サイアノタイプ)で撮影したイメージだが、これは、モホリ=ナジ以降のフォノグラムの伝統にあるものだし、あるいは、そこで生成されるイメージを見ると、抽象表現主義とか幾何抽象などを思い出す。また、2000年前後にたくさん作られていた作品系列に、演奏不可能な楽器シリーズがある。蛇腹部分が長すぎて持てないアコーディオンとかふにゃふにゃのギターとか椅子と一体化したトランペットなど、造形的にとても魅力的な作品たちだが、これらがどういう文脈から出てきたものか、すぐには分からない。Douglas Kahnは、この系列のひとつの足が長すぎて演奏できないドラムセットについて言及する時に、クレス・オルデンバーグのビニールで作られたドラムセットの作品を引き合いに出したりするが、これも直接的に関連するものではない。また、マークレーの他の作品系列とはかなり異なる《Guitar Drag》(2000)という傑作は、明らかに、Gustav Metzgerやフルクサスやパンクロックに関連しているが、そのどれとも異なるし、何よりこれは疑似ドキュメンタリー映像作品である。
マークレーは作品を通じて、音響再生産技術に反応したり、ケージ的な協働の美学を試してみたり、抽象表現主義を参照したり、楽器を視覚美術化するという王道の音響彫刻(?)を制作したりする。マークレーはremaping art historyする、とでもいえるかもしれない。要するに、マークレーの作品はどれも一元的に回収可能な文脈がない、ということなのだが、〈豊かな〉作品とはそもそもそういうものだ、という話かもしれない。

2.マークレーは〈ジャンクなもの〉に注目する。

クリスチャン・マークレーはゴミとか〈ジャンクなもの〉とかを素材にして作品を制作する。マークレーは、あまり注目されないエフェメラや包装紙など日常生活における色々なファウンドイメージを使う。また、《Pub Crawl》という作品がある。これは、ロンドンのパブを出発地としてその周囲を散歩したときに道端で見つけた色々なものを撮影した作品で、11のループ映像を同時に投影する作品らしい。Tom Mortonさんによれば、このマークレーの散歩は(シチュアシオニストのように)English drinking cultureの一端を明らかにするものだし、その散歩で偶然何かを見つけるのはchance encounterなのでケージ的でもあるらしい(Morton, Tom. 2016. “Liquids, Solids.” In Christian Marclay: Liquids, edited by Honey Luard. London: White Cube: 59–64.)(なんだそりゃという気もするが)。2017年のSIAFでもゴミの映像作品が展示されていて、それは《Six New Animations》という作品だったらしい。
マークレーが、アメリカに留学したとき、道端にレコードが捨てられていることに驚き、レコードを使ってアートを作り始めた、というのは、彼が自分のアートの素材に対する基本的な態度を示しているエピソードとして色々に解釈できる。例えば、クリスチャン・マークレーがアートを制作する際の基本的な行動原理は、エディットすること、サンプリングすること、コラージュすることだが、それは言い換えれば、〈資本主義社会において普段はあまり注目されないゴミみたいなファウンド・オブジェやファウンド・イメージを用いること〉である。などなど。
今回の東京の展覧会で最初の部屋には《リサイクル工場のためのプロジェクト》(2005)という作品が展示されているし、ミュージアムショップには、かつてのガラケーを用いた作品が展示されていた。それらを〈ジャンクなもの〉に注目する作品、と考えることもできそうな気がする。

3.マークレーにとって〈現代アート〉とは〈ジャンクなもの〉である。

(これは完全に僕の想像で、マークレー自身がどう考えているかは知らないです。)
以上を組み合わせて考えると、マークレーは、アートワールド(というゴミ捨て場みたいな場所)(≒資本主義社会)から、色々なアートの動向(≒ゴミ)を参照し、それらをエディット、サンプリング、コラージュすることで、アートヒストリーを換骨奪胎するアーティストである、と言えるかもしれない。つまり、マークレーにとってアートワールドとかアートは〈ジャンクなもの〉なのだ、と考えることもできるかもしれない。
もちろん〈ジャンクなもの〉だから価値が低いわけでは決して無い。それは知的に面白かったり美的に刺激的だったりする。ただし、〈ジャンクなもの〉だから、奇妙に高尚なものとなることもない。マークレー作品に僕が感じる〈親しみやすさ〉の原因のひとつはこういうところにもあるのではないか。
ここではアートとは、ゴミ捨て場から物を拾ってきて組み合わせたもの、あるいは、それらを遊ぶような行為、に似ている。それはきっと楽しいことだろう。
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以上、メモです。何か失礼なことを言っているような気もするけど、そういうつもりはまったくないので、「クリスチャン・マークレー再論」に書けなくて良かったような気もします。「再論」を書こうとした時のメモには、他にも、〈マークレーは表層に注目する〉とか〈世界にはゴミとイメージが溢れている〉とか色々なメモも残っていました。そういう〈ジャンクなもの〉を僕が再利用できるかどうかは未定です。

2021-11-11

メモ:CON・CERT waiking from +1art to +2

プラス1アート・ギャラリーで、藤本由紀夫さんが参加している展覧会に。体験型というか参加型の展示。近くの商店街を散歩するのが楽しい。こちらもアーツ千代田のサウンド&アート展と同じく会期短いですが、オススメです。

このギャラリーには何年か前に来たことがあるが、その後、+2が増えたようで、今回は、作家の指示に従いながら+1から+2まで歩く、というイベント作品だった。僕は藤本由紀夫さんの作品だけを実行したが、ちょっとした変化を与えるだけで体験の全容を変容させる手際が何とも洒脱。

あと、この商店街、良い。来年か再来年に向けての企画もありそうで、この商店街を再訪する機会もある。この辺に住みたいな。

CON・CERT waiking from +1art to +2

藤本由紀夫・小寺未知留・佐藤雄飛・林 葵衣・山本雄教・カワラギ・野口ちとせ

2021 11/03(水)ー11/21(日)  PM 12〜7(最終日 〜PM5) 

休廊:日・月・火曜 *11/21(日)は予約制で開廊

http://www.plus1art.jp/Ja_+1/+1Current.html



2021-11-10

メモ:伊藤精英『音が描く日常風景』(金子書房、2021年)

視覚的自己を失明で喪失した後、聴覚的自己あるいは振動的自己を構築した著者が、長年の生態音響・振動学的アプローチを通じて、視覚ではなく聴覚だけで人は世界をどのように知覚認識構築しているかを記述したもの。面白くてさらっと読んでしまった。

ギブソンの生態心理学は視覚中心で、音声や聴覚にはあまり触れていない。そこを埋める研究という意義もある。とはいえ、この本は、生態心理学という領域だけでなく、サウンド・スタディーズ全般のなかで理解されるべき著作であることも確かだ。

おそらく、生態心理学あるいは生態学的知覚論的なやり方が、人文学においてもっと普及する必要があるのだと思う。世界や環境や人間の知覚や行動を記述するとき、世界と知覚主体とを区別せずに記述するやり方を。まあ、実はけっこう普及していて、僕が慣れていない、ということでもあるが。

Facebook https://www.facebook.com/katsushi.nakagawa.9/posts/10225895422109316

2021-11-02

メモ:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』

 

問いの立て方も記述の進め方も馴染みがなくまったく頭に入ってこなかったが、なぜだか、著者の焦燥感に共感していた。
この論述を読み進められないのは、僕が基本的にはこの社会の現状を肯定しているからかもしれない。でも、まったく頭に入ってこないながらも、著者の目まぐるしい記述の何かに共感しつつ流し読みできたのは、もしかしたら、僕がこの社会の現状について何かの危機感を共有しているからかもしれない。
今はまったく読めないし、この論述の進め方を自分の思考に応用できないけれど、また時間を置いてから試してみたい。

2021-10-24

読書メモ:モーティマー・アドラー『本を読む本』(1940)

 

1940年刊行の古典的な本だった。
齢46にして、今後は、。視野読書、点検読書、勉強読書、と分けて読んでいこう、と思うきっかけとなった。

2021-10-23

「お話にならない」;細川周平(編著)『音と耳から考える――歴史・身体・テクノロジー――』(アルテスパブリッシング、2021年)

 


やっと手元に届きました。重い。中川は「日本における〈音のある芸術の歴史〉を目指して――1950-90年代の雑誌『美術手帖』を中心に――」という日本のサウンド・アート小史を寄稿しました。この小史の充実は今後の課題。まずは単著『サウンド・アートの系譜学』(未定ですが)を世に出すぞ!


しかしまあ、重く長く多く、すべて面白そう。
 
この英語論文の日本語版みたいな内容です。ただし、書いたのは英語版の方が先で、英語版とは少し違うフレーミングでまとめています。

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この研究会が終わってからけっこう経ったのだけど、こうして本が出るとはっきりと区切りなので、自分にとってのまとめを少し。
僕は2015年に共著『音響メディア史』と共訳『聞こえくる過去』を出した後に、声をかけてもらってこの研究会に参加した。つまり、最初はこの研究会は、2010年代の前半の仕事をまとめた後の次の段階に進むための入り口、という意味があった。この研究会は、自分にとっては、かなり意義があったし、勉強になった。知り合いも増えた。日本で〈サウンドスタディーズ〉に関わるだろう研究者の多くが集まったはずだ(この論集の一部で採用されている〈音研究〉という言い方に、僕は馴染めない)。この研究会のための仕事として自分にとっては大事な仕事をすることもできたし、ダメなときにはダメと言われたし、研究という活動に立ち向かう色々な態度を学んだ。
 
研究会自体は2017-2019年度にあって、その時期はけっこう定期的に京都に出張して、実に刺激的な研究会(とその後の飲み会)だった。娘の保育園の運動会と重なった一日以外は全日程に参加し、様々な領域に渡る、しかし音と聴覚というテーマに関わるという共通点のある全ての発表が、とても面白かった。ずいぶんと上の先輩から、けっこう近めの先輩、同期感のある同年代、年下の若い研究者たち、色んな年代の仲間の話は刺激的だった。打ち上げも楽しかった。
一番記憶に残っているのは自分が発表した時のことだ。その時点で3年ほどかけた雑誌調査に基づく当時の自分にとっては渾身の発表に対して、反射的な速さで「いつまでたってもお話にならない」と言われた。僕の発表はお話にならなかったのだ! それは発表の筋が話として構成されていないという指摘だったわけだが、あれは、忘れられない。何というか、僕がどれほど渾身であったかとかどれほど自信があったかとかどれほど懸命であったかとかは研究内容には関係ないのだろうとか、まあ、そりゃそうだ的なことを、(ここが大事なことだが)目の当たりにして身に染みて学んだ(ただし、この衝撃を受け止めるために、僕は、まずはスマホを機種変した)。その指摘に対してこの収録論文でうまく応答できたかどうかはよく分からないが、少なくとも自分としては(今回も)自分のできる限りの渾身でこの小論を作った。なので、誰かに届くと良いな。
 
この研究会は2年前にもう終わったのだけど、こうして本としてまとまると、ほんとに終わってしまったことを実感して、なかなか寂しい気持ちにもなる。
すべて物事は終わるものだし、何事もまた新たに〈自分〉が始めるしかないわけだし、実際のところ、自分も研究会の他のメンバーもどんどん他の仕事を始めているわけだけど、寂しいことは寂しい。たぶん40代半ばを過ぎてから、僕は、こうした寂しさに関してはそれなりに寛容になろう、と考えるようになった。なので、もう一度くらい、この研究会関連のメンツで打ち上げがあると嬉しい。
 
ともあれ、(この文章をここまで読むひとはあまりいないと思うけど)ここに記しておくべきことは、研究会やこの本を介して関わっていただいたみなさん、ありがとうございました、ということだ。僕は皆さんに感謝しています。この本が色々なところに届くと良いですね。またどこかで関わったり関わらなかったりすると思うので、その時には、また何か面白いことをできると良いですね。

2021-10-20

メモ:青山真也監督『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』


宝塚シネ・ピピア青山真也監督の『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』を見た。老人ドキュメンタリーの傑作だった。「老人ドキュメンタリー」という言い方は出演している方々に失礼だが、自分の親が家に溜め込んだたくさんの物のことや、自分が年をとったら何歳までなら自分の生活環境を変えることに耐えられるのか、といったことを思いながら見た。

1964年のオリンピックに際しても2020年のオリンピックに際しても、立退を迫られた都営霞ヶ丘アパートの住民が退去するまでのドキュメンタリー。なのだが、このドキュメンタリーは、オリンピックをめぐる政治性について云々したいわけではないようだし、〈国策が下の現場にいる公務員に押し付けられてその皺寄せが弱い立場の住民に来る〉という民主主義社会あるいは資本主義社会における政治的問題についてどうこう言いたいわけでもないらしい。そうした事情については、冒頭では説明されないし、都庁かどこかで住民たちが記者会見している場面が出てきてなんとなく分かるが、分かりやすく説明されているわけではない。このドキュメンタリーは、物語的ではないし説明的ではないし、ある程度事前に内容を知らなければ分かりにくいハイコンテクストな代物だ。このドキュメンタリーは、おそらく、オリンピックのために二回住処を追い出された人たちの状況を、人々にわかりやすく訴えるためのドキュメンタリーではない。

そうではなく、この映画において映し出されるのは、徹底して〈介護に全身を委ねる前の、しかし、明らかに、新しい人生を開拓していこうという段階にはいない老人たちの姿、顔、手、振る舞い〉だった。少なくとも僕にとって、このドキュメンタリーは、人生においてそのような段階にいたった人間の立ち居振る舞いを、じっくりと眺めることができるドキュメンタリーだった。家族以外にそのように高齢の方の顔や動作をじっくりと観察する機会は、あまりない。介護職ならあるのかもしれない。しかし僕は、両親がこのような時期にはもう家を出ていた。帰省を増やして行ったのは結婚してからだし、あるいは、介護帰省が必要になってからだ。仮に万が一ずっと同居していたとしても、僕が見るのは〈家族と同居している老人〉なわけだが、このドキュメンタリーには、なぜか、下の世代の親戚が出てこなかった。

このドキュメンタリーにおいて傑出して優れているのは、カメラワークであり、どのようなショットを撮るかという選別眼だと思う。カメラはすべて固定ショットで、動くショットはなかったように思う。おそらく撮影者なしでカメラだけそこに置いたまま、撮影されたものが多いのだろう。その結果観客が見るのは、老人たちが一人あるいは複数で何かの作業をする様子であり、会話である。年齢を重ねると食事の用意をするのも大変だし、少し高いところにあるものを取るのも大変なので取らなくなるし、特段の意味もないけれど涙が溢れていたりもするものだろう。でも、そうした固定ショットをある程度の時間をかけて見ていると、この人たちがこの空間と丹念に親しんで生きてきたことが、実際に見えてくる。アパートに作った畑の作物に土をかけたり、乱雑にほったらかした衣類がおそらくはその人なりの秩序で整理されているのだろうということが、実際に見えてくる。このように〈実際に見えてくる〉固定ショットがこのドキュメンタリーの傑出した部分だと思う。さすがアジアン・ミュージック・フェスティバルでエモい映像を撮り続けている青山真也である。途中から、出演する老人たちが、アジア各国からやってきた即興演奏家に見えてくる瞬間もあった。まあ、大袈裟な言い方かもしれない。
しかし、出演していた老人たちの何気ない振る舞いや仕草が、かけがえのない所作に見えてくるのは確かである。そして、これは優れたドキュメンタリーであることの必要十分条件だろう。ここに映し出されているのは、人間が動いていることの美しさとかけがえのなさだ。最後のシーン。横を駆けていく高校生たちを眺める老人の笑顔。惚れ惚れする。


宝塚シネ・ピピアはいわゆるミニシアターなのだけど、サブカルエリート臭とかは感じず、個人所有のものであろう映画関連の本やマンガなどがある待合室が居心地良かったのは、客層に老人が多かったからかもしれない。このビル、下にはコープが入ってるし。と思ったが、〈ミニシアターなるもの〉とその愛好者が(僕も含めて)高齢化している、ということかもしれないな。
映画チケットや映画館内のカフェの飲食やコープの買い物などで駐車場代は出るし、電車で三宮まで行くのも似たような手間だし、あと数ヶ月、この映画館に通うってのは、ありかもしれない。『サマーオブソウル』を見れるのは年末だが。

2021-10-19

メモ:黒田将大『電話と文学』(七月社、2021年)

 

「文化としての電話」を研究するために、まずは、「文学における電話」の諸相について事例分析を行った博士論文を、単著として刊行したもの、というまとめで良いかな。総じて「文学における電話とは何か?」とか「文化としての電話とは何か?」という疑問に応えるものではないので、メディア論的観点からは物足りないかもしれないが、問いの立て方が面白い。今後に期待。

電話と文学 声のメディアの近代の通販/黒田 翔大 - 紙の本:honto本の通販ストア https://honto.jp/netstore/pd-book_31234330.html

2021-09-24

お知らせ:11月にアーツ千代田3331で「サウンド&アート展−見る音楽、聴く形」展が開催されます。

プライバシー設定: 公開
11月にアーツ千代田3331で「サウンド&アート展−見る音楽、聴く形」展というものが開催されます。
こちら、毛利嘉孝さんと一緒にお手伝いさせてもらっています。いわゆる音響彫刻とか創作楽器とか図形楽譜などがたくさん展示されるのと、ワークショップとか演奏とかが充実していて、面白そうです。
中川は「創作楽器」について文章書きました。また、11月20日のディスカッションに参加します。話の内容は未定ですが、好きなこと話しても良さそうだし、楽しみにしています。
この展覧会の終わり頃には東京都現代美術館で「クリスチャン・マークレー展」が始まるわけですが、その前に僕も何度か東京出張を入れたいところです。
展覧会をするって色々なやり方があるのだなあ、と思いました。
僕自身が何かの展覧会を企画することはないと思うけど、企画を展開していくにはいろんないろんなやり方と関わり方があるのだなあ、ということを学んでいます。
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▼公式ウェブサイト
※10月初旬にイベント情報など追記予定です。
▼展覧会フライヤー
▼PR TIMES(プレスリリース) https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000087282.html

2021-09-17

メモ:Sonic Legacies: Ludwig Koch and the Sound of the Environment


参加したイベント

Sonic Legacies: Ludwig Koch and the Sound of the Environment

Sonic Legacies: Ludwig Koch and the Sound of the Environment | Facebook https://www.facebook.com/events/219168313440564/

メモ
夜中の三時から四時過ぎまで参加。
イギリスの1900から行われ、40人程度の参加しか無いワークショップに参加した日本人は、よっぽど物好きだろう。眠い。
イベントの副題に「A celebration of Ludwig Koch’s overlooked contributions to the development of acoustic ecology and soundscape composition.」とある通り、このワークショップの一番の目的は、一人目のAnthea Kennedyという人(=1979年にBirdman (1979) | BFI https://www2.bfi.org.uk/films-tv-people/4ce2b6db4a647 という映画を撮影したひと)の発表の最後に発表された通り、Ludwig Kochが1942年に制作した"Symphony in V"を発表することだったように思われる。1942年の段階で、鳥の声をコラージュした音楽を制作していた、というのが売りなわけで、シェフェールがレコードで制作したミュジック・コンクレートが興味深いように、興味深かった。

他は、二人目のJohn Dreverさんの発表が、先駆的なフィールドレコーディング、環境音を用いる事例をたくさん紹介していて、面白かった。個々の事例すべてをメモしたりはできていないけど、〈環境音とか野外の録音をコラージュして制作された録音物は、20世紀初頭からけっこうたくさんある〉ということを常識として認識しておくべし、という気付きを新たにした。たぶんこれが僕にとっての一番の収穫。とはいえ、こういうのは、シリンダー時代にもたくさんある。死刑執行の様子を「再現」したレコードとか。

このイベントはTeamsで行われたのだけど、〈Teamsでは参加者が自分で自分の表示名を変更できない〉ことを知った。なので、英語圏のセッションのなかに唯一漢字表記の人間が紛れ込んでいた、ということになる。やれやれ。
【Teams】アカウント名/表示名を変更する方法 | BEGIN-PROG https://begin-prog.site/teams-how-to-change-display-name
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いくつかの事例メモ

London Street Noises - Soundscapes across a century https://londonstreetnoises.co.uk/

Gas Shell Bombardment | Imperial War Museums https://www.iwm.org.uk/collections/item/object/80017820

BBC radio actuality recordings: London street noises 1928 | The London Sound Survey https://www.soundsurvey.org.uk/index.php/survey/radio_recordings/1930s/1606

Reproducing Traces of War: Listening to Gas Shell Bombardment, 1918 | Sounding Out! https://soundstudiesblog.com/2014/07/07/listening-to-traces-of-war-gas-shell-bombardment-1918/

Noises Off: A Handbook of Sound Effects - Frank Napier - Google ブックス https://books.google.co.jp/books/about/Noises_Off.html?id=qqUqAAAAYAAJ&redir_esc=y

Soundings: documentary film and the listening experience - CORE https://core.ac.uk/display/158172322?recSetID=

Save That Song on Vimeo https://vimeo.com/129294640

2021-09-15

メモ:kindleで『アドルフに告ぐ』

アドルフに告ぐ|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL 

神戸にいるうちに有馬温泉に行きたいな、と思い、ちょっとだけ有馬温泉の近くが出てくるこのマンガを思い出し、紙の本は横浜にあるので、Kindleで購入して久しぶりに読み直してみた。中学生の頃から何度も読んできたマンガだけど、久しぶりに読んでも面白かった。章が進むにつれ変わっていく主人公峠や三人のアドルフの性格と境遇、そして、次々と登場する魅力的な登場人物たち。古城先生やら酒場の女将さんやら憲兵隊本田の息子やら、全員がしっかり描かれている人間ドラマで、面白かった。

また何年かしたら読み直そう。

2021-09-10

メモ:ネトフリで『テネット』


〈時間が逆行する〉とか〈未来から、過去を破滅させるためのいろいろな道具が送られてくる〉という設定を真面目に理解するのは辞めて、飛行機が爆発したり、四台の車でプルトニウム強奪したり、鳩や船や車が後ろ向きに走ったりする映像を堪能することに集中したので、面白かった。設定もストーリーも、真面目に考え始めると、かなり穴が多い。今作では未来の敵(?)のことが全く描かれていないので、『テネット2』も制作可能だな。

クリストファー・ノーラン監督の映画は〈映像を楽しむ映画〉と認識すべし。


主演のジョン・デヴィッド・ワシントンは、デンゼル・ワシントンの息子とのこと

TENET テネット - Wikipedia 


2021-09-09

ファイザー製ワクチン接種二回目のまとめ

 9月7日 11:53

ー設定: 公
ファイザー製ワクチン二回目接種しました。さて、どうなることやら。
吉松伸樹、水田 十夢、他24人
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コメント8件

  • 中川 克志
    左腕が重くなってきた。一回目もこんな感じで、で、それだけで終わった。
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    • 2日
  • 中川 克志
    37.0になった。僕は普段は平熱が低く36前半なので、なんだか体が暖かい。
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    • 2日
  • 中川 克志
    あ、下がってきた。
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    • 2日
  • 中川 克志
    副反応終了…。明日になったらまたあがる、とかあるのかな?
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    • 2日
  • 中川 克志
    翌朝、全身筋肉痛
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    • 1日
  • 中川 克志
    翌日昼、熱はないが、全身筋肉痛でダルダル。副反応、軽い方なんだろうと思えど、机に向かって仕事したり勉強したりは無理。娘と妻を車で医者に連れて行き、駐車場で待つのはできた。娘を公園に連れていくのは無理。熱はないのに頭が痛くて、なんか不思議な感じ。
    高熱の高揚感みたいなものはないが、体調悪いが故の不安感の増大はあるので、要注意。
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    • 1日
  • 中川 克志
    熱はずっと大したことない。上がっても37.1。ただ、頭が痛い。
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    • 1日
  • 中川 克志
    二日目朝、すっきり。
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