生きてるだけでまるもうけ
何か今まで触れたことのない領域のものを読むべきと思えど、さしあたりないので手元にあったものを読んでる活字中毒なのだけど、僕は、まだちょっとしか読んでないのだけど、加藤幹郎『映画と観客の文化史』は面白い。学者とか研究者とか批評家は、自分の専門領域について語るとき、知的に人を啓発するもんだ。
僕の「賢さ」の定義だな、これ。他人に、自分は賢いと思い込ませる能力があること。
>学者とか研究者とか批評家は、自分の専門領域について語るとき、知的に人を啓発するもんだ。この「人」が誰なのかってことだと思う。>他人に、自分は賢いと思い込ませる能力があること。 この「他人」が誰なのかってことだと思う。前者の「人」と後者の「他人」は正反対の性質のものになっていないかってことだと思う。
難しいこと言うなあ。僕は、基本的には、「人」=「他人」=「学生」であって欲しいなあ、と思う。僕は"批評家的な存在"になろうと思わなかったので、「人」か「他人」=「見知らぬ他人=読者」となる可能性は考えてこなかった。「"批評家的な存在"になろうと思わなかった」ことは、問題なのかもしれんが。もっと明確に「"教師のような存在"になろうと思ってきた」んだったら、あんまし問題はなかったのかもしれん。分からんけど。なんにしろ、目の前にいる人間に説得的に語りかけられなきゃ駄目だよな、とは思うけど、なっかなか難しいなあ。
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2 件のコメント:
>学者とか研究者とか批評家は、自分の専門領域について語るとき、知的に人を啓発するもんだ。
この「人」が誰なのかってことだと思う。
>他人に、自分は賢いと思い込ませる能力があること。
この「他人」が誰なのかってことだと思う。
前者の「人」と後者の「他人」は正反対の性質のものになっていないかってことだと思う。
難しいこと言うなあ。
僕は、基本的には、「人」=「他人」=「学生」であって欲しいなあ、と思う。
僕は"批評家的な存在"になろうと思わなかったので、「人」か「他人」=「見知らぬ他人=読者」となる可能性は考えてこなかった。
「"批評家的な存在"になろうと思わなかった」ことは、問題なのかもしれんが。もっと明確に「"教師のような存在"になろうと思ってきた」んだったら、あんまし問題はなかったのかもしれん。
分からんけど。
なんにしろ、目の前にいる人間に説得的に語りかけられなきゃ駄目だよな、とは思うけど、なっかなか難しいなあ。
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