僕は「げーじつ」の面白さは「世界の見方を少し変えること」だと思ってる。
でも、「げーじつ」かどーかとかはどうでも良いから、「現代において表現すること、つまり現代において考え、感じ、生きること」という切り口で何かを語れるというのは強いなあ、と思った。
この回答は「正確」じゃないだろうけど、「正確であること」と「人に対する訴求力があること」はイコールじゃない。
(「現代において…こと」はテクノロジー抜きでは成り立たなくなった、という意識を持つ人々が集まる場所は、必ずしもアルスエレクトロニカじゃなくても、「げーじつ」のための場所でなくても構わなくて、何かの「金儲け」のための場所とかでも良いはずだ。)
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そんな「解釈」に何の意味があるのかといえば、なんだろ?
消極的な意義と意味は「げーじつに、まるで何かの意味とか意義があるかのような外見を与えること」で、積極的な意義と意味は「(それが何であれ、何かに対して)色々な解釈をしてあげること」という行為そのものの面白さを披露すること、かな。
なかなか難しいな。
とにかく、分かりやすい日本語使わないといけないよなあ。
今月の頭にあった学会の、シンポジウムとか発表タイトルとか要旨とか、よう分からんかったしなあ。ああいうのはある種の末期的症状な気がするけど、僕のメイン学会は、そういう「末期的症状」を何十年も続けてきた学会な気もする。どこにも「逃げ場所」なんかないんだけど、まあ、せめて自分が書く文章だけはしっかりと検証可能な分かりやすいものにすべく頑張ろう。
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