結局ここは何の部屋なんだろう?
もっかいきたら、机の上におかれてたカタログの一ページなどを製本しようとする学生がいたので、僕のやったことはけっこう間違えてたのかもしれんが分からない。
まあ、そんなまずいことしたわけではないし、後日、この黒板の隅の紙切れが残ってるかどうか、行く人、確認して教えてください。
以上、京都国立近代美術館で開催中の『生存のエシックス』の感想。
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しかしまあ、これらが価値あるかどうかと考えると、よく分からん。
アートって、世界の見方を少しでも変えるならそれはアートだと思うけど、これは良し悪しを測定する基準じゃねえしな。
美術館とかアートにとっては、「科学とかテクノロジー」(という見せかけとかアイデア)を借りるのは、多様で目新しくて良いのかもしれんと思うが。
科学にとって得なのか、とか、これらは美術館でしか得られない固有で代替不可能な経験か、とか考えると、よく分からん。
アートにおける「科学」の使い方って、いくつかの種類があるよな。
一番信用できないのは、アートを追究することで科学やテクノロジーに知見を還元するって主張だ。
今まで、それで何か大事なことが見つかったことは、あったのか?
そもそも、テクノロジーにとってアートが役立つことは、あるんだろうか。そもそもアートとはテクノロジーのことだし、テクノロジーこそがアートなのに(語源とか起源的に)。
あぁ、ハッタリとか権威付けの役に立つか。だから、工学系の領域で使われる「アート」って言葉とか概念は、高尚だったり価値あるものじゃないといけなくて、だから、ヒューマニスティックに古くさいことが多いんだな。
なるほど。
そんな言葉使わなくても、テクノロジーこそがアートなのに。
しかしまあ暑い。
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